不定期戯言2

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検索条件:2011年12月9日 

2011/12/09(Fri)

バルス

金曜ロードショーが「ラピュタ」をやる…ということで,当然のごとく twitterは「バルス」で埋め尽くされる。2chのサーバがいくつか落ちたらしい(噂)。 これって,テレビとインターネットが融合できるといういい例なんじゃなかろうか。 もちろんあと何年かしたらみんなバルス祭りには飽きるだろう。 そのときまた別のおもしろいコンテンツがあれば盛り上がるだろうし, なければテレビはほったらかしにされる。 もうテレビは正座してそれだけを集中して見るものではなくなっている。

あれ,それはテレビに限ったことじゃないのかもしれないぞ。

「公式サイト」なんてどうでもいいのかもしれない。

彼らが身につけるのは(続き)

昨日書きかけたこと「脱・解答読解」 に近いような気がするのだけど, そう言ってしまうと1行で終わってしまうのでもうちょっとだらだらと書いてみる。

確認テストをやって追試をやって…という一連の流れがあるのだけど, 最初のテストの勉強をろくにせずに,テストの問題を見て「この問題の解き方を見直せばいいや」と 考えてそれだけを覚えて追試で受かる,という不毛な作業をよく目にしていた (ここ数年は数学を担当してないから,最近はどうなのかよくわからないけど)。 それだったら昨日のだきわさんのコメントにあるように短期記憶だけでこなしてしまえるのだけど, でも何の能力にもなっていない。それで勉強したとか錯覚するのは本人にとって不幸だ。

仕事の息抜きにYahoo知恵袋に解答を書き込んだりしてるのだけど, そのときは何も考えずに書き込んでいる。 頭を使うような回答はまったくしていない。 たとえば二次方程式の解を求めること,たすきがけで因数分解をすること, 因数定理で高次方程式を解くこと,(高校の範囲の)積分をすること… そういったことはまったく頭を使わないでもできる(手作業はするけどね)。 そうなってようやく,考えるべき事柄を考えることができるようになる。

考えなくてもできることをやるのなら,誰がやっても同じだから, それをできることやそれをできる人に特別の価値はない(いくらでも代替がきく)。 自分がやることに価値を持たせるためには,他の人がやっては同じにならないことを しなくては話にならない。そのために「考える」のだ。 そして「考える」ことができるためには,誰でもできることを考えずにできるようにならなくてはいけない。 そのために確認テストが作用してくれるといいな。