あー,俺ずっと前から知ってたわー。世界で一番最初に気づいてたわー(地獄のミサワ風)。
小保方氏らによるSTAP細胞の件がニュースで盛り上がっている。 噂によると,子供の頃の文集を引っ張りだしたりとかしてたそうで, 「ああ,いつものワイドショー化か」と思ってたら, 「周囲の人の迷惑になってるし,研究の妨げにもなってるからやめてくれ」という コメント が出る始末。 このようなコメントをきちんと出す判断をした賢明さに感心するし, そうせざるを得ない状況を作ったあれやこれやにげんなりしたりもする。
堀江貴文氏の著書『ゼロ』のテーマは,収監前の 『稼ぐが勝ち』と変わっていないということを彼は述べている。 なのになぜ周囲の受け止め方が違ってきたかというと, 『ゼロ』では堀江氏の生い立ちやら抱えてきたコンプレックスやらといったことを 延々と綴っていることにあるのだそうだ。 そうしないと伝わらない,というか,受け手が受け取らない。 多くの人は「 苦労して 成功を掴んだ」というストーリーしか受け付けない。 だから「成功」を語るだけでなく,「苦労」を 見せつけ なくてはいけなかったのだ,と。
それを読んだのは ちきりんさんとの対談 (前編) (後編) だったと思ってたんだけど,読み返してみるとなにか別の媒体だったようにも思える。 何だったかな…。
研究にせよスポーツにせよ, 誰かが何らかの偉業にたどり着いたとき, 日本のマスコミはその人の人となりを語ろうとする。 つまりそれは「伝記」だ。 そして伝記には,決まったフォーマットがある。 たとえば「夢」「苦労」「成功」。 報じる側はそのフォーマットの空欄補充をするために, 「夢」を語っている文集はないか, 「苦労」や「挫折」のエピソードはないか,といった「取材」をする。 しかしそもそも伝記のフォーマットへのあてはめが, ステレオタイプの構成でしかないのだから, 出来上がったストーリーは水戸黄門のようにお決まりのパターンになる。 視聴者は予定通りのどんでん返しを見て安心する。
受け取る側は,いつものフォーマットであれば 「あー,俺ずっと前から知ってたわー。世界でいt(ry)」 と聞き流すことができる。 世の中は自分の頭にある「あの」フォーマット通りに動いている。 だから何も考えを変える必要はない。
日本だけがこうなのか,と言うことは私にはわからない。 でもこういう形での停滞がこの国では淀んでいるように思われる。