みんなの音楽室
新年会ということでお邪魔させていただいた。2曲回しということではあったが,途中で抜けられる方もいて結局4回。最後はお店のフォークギターを弾かせていただいたが,ひさびさな割には気持ちいい音が出せた。こういうふうに鳴ってほしい,というのがそのままというか。
- あたりまえの夜
- Born Free Spirit(ロブバード)
- 川べりの家(松崎ナオ)
- はじまりのおわり
- 愛のきざし(オフコース)
- 歓喜の歌(頭脳警察)
- Desire, Messiah
- 朝の歌(サカナクション)
新年会ということでお邪魔させていただいた。2曲回しということではあったが,途中で抜けられる方もいて結局4回。最後はお店のフォークギターを弾かせていただいたが,ひさびさな割には気持ちいい音が出せた。こういうふうに鳴ってほしい,というのがそのままというか。
そう,サイゼリヤにあるアレのような,左右の絵の違いを見つけるというアレである。子供の頃から思ってることなんだが,なぜあれを「まちがいさがし」というのかわからない。間違いというのは正しいものと違っていることを指すのが普通だと思うのだが,左右の絵はどちらかが正しくてどちらかが間違っているということではない(ときどき本当に間違っているものもあるが,左右両方とも同じ間違いをしていたらそれも答えなのだろうか)。なぜこれを「間違い」と呼ぶのだろう。
「正しいもの」がただ一つ存在して,それ以外は全部間違い,という考えがあるのかもしれない。問題集や参考書の解答例(決して模範解答ではない)と途中経過が違ってるときに自分の解答を間違いだと思ってしまう,あるいは自分の解答が間違っている理由を探してしまうということが,多く見受けられるように思う。数学とか,もっとずっと自由なものなんだけどなあ。
そういえば前に面白ドリブンで書いた文章について公開してなかったので,差し支えなさげな範囲で引用しておく。
「◯◯ドリブン」という言葉があります。これは◯◯に基づいて,あるいはそれを原動力として行動するということを指します。たとえば「データドリブン」は収集したデータを根拠にして立案された行動であり,「顧客ドリブン」は顧客のニーズをベースにしたマーケティングなどを指します。プログラム開発の世界では「テストドリブン」「コメントドリブン」「AIドリブン」などの言葉がよく使われます(ここでいうテストとはプログラムが正しく動くことを確認するプログラムであり,テストドリブンはテストを通過するようにプログラムを作っていくこと。コメントドリブンやAIドリブンではそのテキストに従うプログラムを作る。なお「イベントドリブン」は少し別の話で,プログラム自体がイベントをきっかけに処理を行うということ)。原稿を書く仕事をしている人の中には「締切ドリブン」や「メールドリブン」で仕事をする人もいるようです。君たちの中にも「定期(実力)テストドリブン」で勉強をしてきた人がいるかもしれません。
先日Xで面白い投稿を見かけました。周辺の投稿を含めて要約すると「IT業界は『面白ドリブン』で学ぶ人が多い。彼らにとって勉強することは苦役でなく快楽なので,しぶしぶ義務的に取り組んでいる人がかなうわけがない」というものです。IT方面はどんどん新しい技術がでてきて,学び続けることが求められますから,好きでないとやってられないよね,ということでもあります。これは筆者もすごく共感することでした。誰に頼まれたわけでもないのにお金や時間をつぎこみ,自腹を切って休日を潰して学会や研究会にも参加するのは,それは単純に楽しいからです(ここは「単純に楽しい」から,ではなく,単純に「楽しいから」と読んでもらいたい)。
そういえば,LinuxというOSを開発したリーナス・トーバルズは自伝『それがぼくには楽しかったから』(原題:Just for Fun)で自身の開発動機について述べており,社会への影響よりも個人的な興味や楽しさが原動力であったことを明かしています。Linuxは世界を大きく変えたソフトウェアの一つですが,彼にとっては「自分が面白いと思うことをやってきただけ」なのであって,社会が変わったのはその副次的な結果に過ぎないということです。
ここまではIT方面の話をしてきましたが,「好きこそものの上手なれ」ということわざがあるように,どの世界でも面白ドリブンで一流になった人は多いのではないでしょうか。スポーツ選手や芸術家,研究者などもそうかもしれません。もちろん面白ドリブンでも苦しいことはあります。筆者もわからない問題に何日・何ヶ月も(時には年単位で)頭を悩ませることがしばしばあります。でもそれも含めて楽しいのです。 もちろん楽しいだけで世界が回っているわけではありません。世界を回すために義務的に取り組む人のおかげで,面白ドリブンで取り組む人がその楽しさを享受できているというのも事実です。それでも生活のどこかに自分なりの楽しさを見つけていけることを願っています。
入試を控えた君たちは言うまでもなく「採点される立場」にあります。これまで多くのテストがあり,模試があり,そのたびに答案を採点されてきました。これは大人になれば変わるものなのでしょうか。もちろんある点では逆に採点する立場にもなるでしょう。しかしそれは一面的な見方でしかありません。たとえば来週は中間テストですが,出題・採点する我々も「授業はうまくできていただろうか」と君たちに採点される緊張感を持っています。
採点されるということは誰かが決めた「正しさ」に依存することでもあります。よく話題になるトンデモ採点(掛け算の順序とか)はその一例でもあります。
先週の主権者教育では胎児の人権について考えました。なぜ考えるのかというと,この問題には「正解」がないからです。ある人はその人なりの「正しさ」を,別の人はそれとは違う「正しさ」を持っています。だからこそ議論が尽きないのです。河島英五は「てんびんばかり」という長い歌の中で「どちらももう一方より重たいくせに/どちらへも傾かないなんておかしいよ」と歌っていますが,まさにその通りなのです。
正解のない問題の正解を他人に示すことには責任が伴います。その責任を背負う覚悟を持つことが,大人であるということです。それは他人を採点するということを意味するものではありません。ましてや自分の採点で他人を攻撃するなんていうのはもってのほかです。むしろ求められるのは真摯な「自己採点」でしょう。
これはサカナクションの「怪獣」という歌の一節です。誰かの決めた唯一の正しさに支配される「完成された世界」なんてまっぴらです。いろいろな正しさがぶつかり合う未完成な世界の中で,自分が責任を持てる正しさを見つけたり作ったりしながら我々は生きていきます。この世界が未完成であることは未来を作っていく君たちにとって好都合です。その原動力の一つとして「面白ドリブン」があってもいいんじゃないかな,と思っています。
神奈川県高等学校教科研究会情報部会実践事例報告会(通称:冬フェス)に「PyPENの進化」ということでオンデマンド発表をさせていただいた。自分自身授業ができてないのでほんとうは実践事例ということでもないのだが,最近施した大きい変更についてできるだけアナウンスをしておきたかったので。
実際その変更の影響範囲について質問があり,「過去のプログラムが動かなくなるのではないか」との指摘についてはその通りである。しかし修正はcopy関数をはさめばなんとかなるので,そういうことで我慢していただく方向を考えている。
研究報告にしても全国大会にしても,予稿をpLaTeXで書くのはなんだかなーみたいな気がしてきたので,coPilotに手伝ってもらいながらクラスファイルをLuaLaTeX対応にしてみた。とりあえずGitHubに上げておくことにする。https://github.com/watayan/ipsj_cls_for_techrep とりあえず私はこれで書いてみよう。フォントとかきちんといじりたくはあるけど。
再帰のプログラムを書いていたら,解せない動作があったので1日かけて修正。CallFunctionやReturnStatementだけで済むかと思ったらVariableクラスやAssignクラスにまで手を入れる必要があった。デバグはいわゆるprintfデバグで,あちこちに監視用のconsole.logを仕込んで実行を繰り返した。ログの読解ではCopilotにもだいぶ協力を仰いだりもした。
ということで本郷のArmadillo。
先日友人にもらったアドバイスを意識して,淡々とした歌い方にならないように気をつけてみた。「あたりまえの夜」はわりといい感じで聴いてもらえた気がする。
今回は『PyPENの進化』を新刊として持っていった。そしてA4を2つ折りにしたフリーペーパーを持っていったのだが,事前チェックで「すいません,折ってしまったら本扱いなので登録をお願いします」とのこと。「折れば本」というのはこういうことだったのか。この件については迅速に対応いただけたので事なきを得た。
技書博のときに,PyPENをITパスポート試験の言語に改造できるのではないかという方と話をした。今回も基本情報技術者試験について同じ話があった。