不定期戯言2

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2011/02/14(Mon)

crcdisk.sys

先日からホスト環境のVistaを何度も何度も何度も再起動している。 というのもWindows Updateを繰り返しているからなのだが… 問題は,crcdisk.sysのところで止まってしまうことだ。 こうなると他メディアから起動を試みたりBIOSの設定をいじって戻してみたりしないと 起動してくれなくなる。検索してはみたけど有効な解決策は見つからない。

ようやくまともに動く状態になったので,

前の投稿は読点がおかしかったが,今日はまともだ。

2011/02/12(Sat)

ホストとゲストの交換

ScanSnapを使うときにいちいち起動しなおすのも、そのたびにVMware立ち上げるのも面倒くさい。 そんなわけで衝動的にホストをWindowsにしてみることにした。 今までLinuxホストでWindowsをゲストにしていたけど、Windowsはゲストだといろいろ制限があるし、 重すぎるので。 もちろんLinuxだってホストのときと比べるとずいぶん重くなっているのだが… これは耐えられる範囲かな。 文書書きがほとんどなんだから。

2011/01/31(Mon)

Edyなう

IS03でEdyが使えるようになった。 しかし,初期設定をしようとしたらサーバにつながらない。 多くの人が心待ちにしていたということなんだなあ。 ようやく夕方になって設定と,前の携帯からの機種変更ができた。 あとはSuicaが使えるようになってくれれば,前の携帯を持ち歩かなくても済むんだけど。

有限だから意味がある―リアルな現実

プリキュアが最終回だったとのこと。 最初のシリーズを含めて一度も見たことがないのではあるが,話題にはなっているので耳には届く。 漫画家田中ユタカさんの tweet

「無限の力」にも「無限の愛」にも頼るなとはっきり言っちゃっいましたね とあったのを見て,数年前に無限と有限に関する話を生徒の前でしたことを思い出した。 職場の旧サイトに 残っている のだけど,もう管理していないところなのでこちらに転載しておく(一部修正)。 自分の文章を転載するというのも妙な話ではあるが。

Donald E. Knuth先生が1990年に「3:16 Bible texts illuminated」という本を出版された。 これは聖書の中から第3章16節を集めて,それについて研究して自分なりに翻訳・解説し, 一流のカリグラファによるカリグラフィとともに本にまとめたものだ。 この本には59個の第3章16節が集められている。 聖書には3万の節があるというから全体から見れば 0.2%だ。たかが0.2%である (もちろん氏は敬虔なクリスチャンであるから,その部分だけを研究したのではないわけであるが)。 しかし聖書が有限である以上,この0.2%には意味があるはずなのだ。

有限で大きい数というと昔はgoogol(10の100乗)やgoogolplex(10のgoogol乗)が取り沙汰されたが, 実はKnuth氏が世界一大きい数を開発したということでギネスブックに乗っているらしい。 それは次のようにしてできるものだ。10×10 というのは10を10個足したもの, 10の10乗は(さっき定義した積を用いて)10を10個かけたものである (以下では10の10乗を10↑10と書くことにする)。 次は10↑↑10というのを10↑10↑…↑10と定義する(10は10個で,右から計算する)。 続いて10↑↑↑10を 10↑↑10↑↑…↑↑10と定義する(同様)。 彼はこの数をファンシーK,10↑↑↑ファンシーKをスーパーKと名付けた。 これはとんでもなく巨大な数だ。正直なところ私は↑↑くらいからもう想像ができない。 もちろんこれらの数は有限ではあるが,我々が考えられるものすべてがこの数の範囲に収まるだろう。 氏はMITで行なった講演の中で「神は有限であってもかまわない」と言っている。 スーパーKのレベルでの有限ならば,それは現実には制約にはなりえないからだ。

私は大学4年時のゼミで無限集合に関する振舞を勉強してきた。 無限集合の大きさというのは1を足しても2倍しても2乗しても変わらない。 ところが有限ならば1を足すだけで大きくなる(前述のスーパーKでさえ)。 実はこれが有限と無限を区別する一つの考え方(デデキント無限)なのである。 我々の世界が無限であり,能力が無限であるなら,私一人いなくてもかまわない (別の人が私の分をやればいい。無限なら2倍しても変わらないのだからその人の負担は増えないのだ)。 我々の世界が有限であるとするなら,どんな些細なことも意味を持つから,一人一人の存在が意味を持つ。 「親離れ」の一つの解釈として,親の保護下では無限の力があると錯覚していた子供が, 実は自分には有限の力しかないことを認識する,という考え方がある。 「若者には無限の可能性がある」なんて嘘っぱちだ。 我々は有限の可能性の中で,有限の世界に向かって,有限の能力で,有限の仕事をしている。

我々は有限だから一人一人の存在が意味を持つ。 だから私は人がやることを大事にできない,踏みにじるといったことが一番許せない。 それはその人の存在を認めないということだからだ。 私は他人の存在を認められない者を人間とは認めない。 以前あるクラスで授業中に「私は君たちを人間として扱いたいのだが,現状では無理だ」 と言ったのはそういう意味だ。人がやっていることを踏みにじる者を人間として扱うことはできない。

田中ユタカさんのマンガも,同じように有限や現実に足をつけようとしているところがあって, そういうところを私は好きなのだろうと思う。 殴り殴られる痛みを知ってもいよう。 身体の中や外で血が流れていることを知ってもいよう。 自分の愚かさにさえ気づかない愚かさを互いに責めたり許したりもしよう。 他人より自分を守る弱さと強さを持ってもいよう。 全能の神なら意に介さず放置してしまえる世界(新井素子さんの作品にそういう情景があったな。 どの話か忘れたけど)に,ひ弱な人間がか細い牙をむいたりもしよう。 そうやって,生きることを楽しんでいよう…いくつもの不愉快なことも抱えながら。

2011/01/29(Sat)

はかるだけダイエット

最近ブログを書いてられないほど忙しい。 そんなわけで憂さ晴らしに いじめ画像 を作ってみた。

Androidの「はかるだけダイエットEX」のデータをCSVに変換するだけの俺得アプリを作って, それまで手帳につけてたデータとマージしてみた。ある時期からきっちり減っている…というか, 一定の線をキープしている。 このアプリは0.1kgの変化がはっきりわかる勾配のグラフを表示するので, ヤバい線を越えないよう自制できるのだな。

体重のグラフ

2011/01/15(Sat)

第1回名古屋Android勉強会

ということで愛工大本山キャンパスへ。 講師は C-LIS 代表の有山さん。 受付を済ませて, 「はかるだけダイエット」作者 に挨拶をして, 準備をしてたらもう開始時間。 周囲をずらっと取り囲むスタッフ…TAということなのだけど, ハンズオンを始めてみるとやはりこれだけの人数がいないと厳しいのだなあと思った。

第一部「AndroidでHello, World !」では,コードとリソースを分離することの大切さ, startActivityで呼び出したActivityは上に重なるイメージをするとわかりやすいということ (だから「戻る」ボタンで除去すると前のActivityに戻る) を学んだ。

第二部「カスタムUI入門」では,onほげ()の呼ばれる順番, DatePickerやTimePickerなんてViewがあること(みんな自作してるのかと思ってた), Selectorの使い方など。 Draw9patchが動かないのはどうしたことかと思って検索したら,

解決策 を紹介している ページ を見つけた。なるほど,こんな感じなのか。

第三部「Androidテスト入門」はとにかくテスト。テストプロジェクトってのはこんな使い方をするのか。 Serviceの辺りからはついていけなかったけど, バグを作り込まないためにはこういうのを習慣づけるといいのだろうと思った。 monkeyはさっそく自作アプリで試してみた…が, やはりランダムな行動だけあってダブルタップまではいかなかったようだ (一昨日までの時点では,微妙なタイミングでダブルタップするとぬるぽが起きるバグがあった)。

懇親会は賑やか。 話のネタはAndroidアプリが中心で,そのために多くの人が端末を出して話をしているのだけど, この一角に何台のAndroid端末が集結しているのやら。 私がいたあたりでは 「みんなのラーメンタイマー」 の開発に関する話とか(スリープ状態の間は音が鳴らないことが気になっていたので質問すると, たぶんその点は直すのが大変だろうとのこと), ある地点に近づくことをGPSでとらえるのは普通だけど離れることに着目するのもおもしろいという話とか, ほんとにみんな開発を楽しんでるなあと。 私がIS03買ったのもそのためだし。

2011/01/10(Mon)

IS03のバッテリ

数日前からIS03のバッテリの持ちが急激に悪くなった。 いろいろアプリを削除したりとか試してみたけど効果なし。 試しに予備バッテリに変えてみたら元に戻った。 既にバッテリがだめになったのか?と思って試しに元のバッテリに戻してみたら, 以前のように長時間持つようになった。

ここ何日かの間に何度か電源を入れなおして再起動したりはしたのだけど実はそれだけではだめで, こんな事態になったときにはバッテリを一度はずしてやらないといけないということなんだろうか。

2010/12/31(Fri)

伊勢神宮は燃えているか

年末のうちに外宮さんに。 どんど火ではいつものように餅が焼かれている。 大きい火で焼くためには,柄の長い(1mくらい?)餅焼き網が必要となる。 餅は遠火。

どんど火   柄はずっと長い

Desire, Messiah

紅白を見ていたらEXILEの歌にDesireとMessiahをかけた歌詞があって驚いた。 私が 「Desire, Messiah」 を書いたのは何年前だったか…シンドラーのリストの映画とどっちが先だったかな。

2010/12/23(Thu)

日本情報科教育学会三周年記念フォーラム

ということで東京タワーのすぐそばの会場へ(帰り際にライトアップされたタワーを見た。 うん,綺麗だった)。 夜行バスで来てたせいでだいぶ眠かったのだけど, カラー筆ペンを出してマインドマップでノートを取り始めたら頭が目を覚ましたようだ。 以下,話を聞いて考えたこと:

経産省が定義づけた 「社会人基礎力」 につながる力のいくつかを,情報科は背負っているように思う。 チームワーク力とかコミュニケーション力とか(体育もやってるかな)。 そういったものを, 情報科だけが背負うべきなのだろうか←これを疑問文にしたのは2つの意味がある。 1つは,他の教科でも当然やるべきものだから振り分けて実施してもらえば (あるいは私が何度か口にしている「勉強科」を作って行なう),情報科として 真にやらなければならないものだけが残るだろうということ。 もう1つは,情報科がこれを背負うことによって,生徒たちに不可欠な教科としての地位を 確保することもできるだろうということ。 次の学習指導要領に向けて,どちらかに舵を切るのだろうか。

いまどきは大学生にノートのとり方から教えなくてはいけないというケースもあるという。 勉強の仕方そのものがおかしくなっているのだろう。 高校までの学校の勉強は,情報科を除いてすべて(川喜田二郎氏が『発想法』でいうところの) 書斎科学になってしまっているように思われる。 一方,情報科は野外科学であることを求められている。 この違いはノートのとり方にもあらわれてくる。 書斎科学であるなら,現資料はずっととどまったままだ。 だから板書を写すということでとりあえずのノートはできるし, 教える側もそれで満足してしまう。 たいていの場合,生徒に要求するのは教えた内容の「再現」だからだ。 そしてすべては形式だけを整える儀式になる。

従来教科は学習指導要領が変わっても何も変わらない。 もちろん単元の加除はあるが,ただそれだけだ。 ただ入試という「競技」のために特化し,その結果として 学校の勉強がガラパゴス化している(国際競争力の足しにならないという意味で)。 たとえば数学の「データの分析」は(教科書会社方面から漏れ聞くところによると)できるだけ 軽く扱われようとしているようだが, そういうのを聞くと彼らには日本人の統計に対する弱さへの危機感とかなくて, ただ国内競技の成績だけを気にしているようにしか思われない。 この改訂なんて「迷惑なルール変更」としか考えていないのだろう。

何人かから共通して出たのは, 情報科教育の質保証・質向上はつまるところ教員のそれであるが, その妨げになっているのは,たとえば他教科との兼担であり,職場内SEという役割だということだ。 その点では私は恵まれた状況にあると言えるだろう。 今は情報だけを担当しているし, 職場内SEであることを業務と位置づけてもらえている(もちろんそれを勝ち取る苦労はあった。 ネットワーク管理を業務と位置づけられるまでに十年以上かかったし)。 しかしそれは必ずしもすべての情報科教員にあてはまることではない。 かといって,私が今の状況を作るために何年も声をあげ続けてきたのと同じことを他の人たちもやれと いうのは現実的でない気がする。

そんなことを考えながら神田神保町の古本屋をめぐっていたら, 『やさしい情報整理学』(かいきよみち著,社会思想社現代教養文庫729)をみつけた。 梅棹先生の『知的生産の技術』の実践みたいな内容かな。 これも何かの縁だろう。もちろん即購入。