DHCP
家の無線LANをDHCPにした。というのは娘の学校ではDHCPなのだが, 固定アドレスとの自動切り替えをWindowsではどうやったらいいのかわからないからだ。 LinuxだったらWicd Managerで簡単なのだけど。
家の無線LANをDHCPにした。というのは娘の学校ではDHCPなのだが, 固定アドレスとの自動切り替えをWindowsではどうやったらいいのかわからないからだ。 LinuxだったらWicd Managerで簡単なのだけど。
忌野清志郎の通夜,葬式はすごい顔ぶれだったみたいだ。 三浦友和がCoversにでてたときにはどういうつながりなんだろうと思ってたけど, ずっと昔からだったのね。 竹中直人は弔辞で「死んでない」と言ったとか。 橋本治が有吉佐和子の追悼文に「お元気で」と書いてたのはずっと心に残ってる。 あれがなかったら,私は有吉氏の小説を読んでいなかっただろう。
アイルランドの学生がWikipediaに書いた嘘を元にした死亡記事を大手新聞が書いていたという 話 を聞いた。十分ありえることではあるとは思っていたが…。 逆に,新聞に書いてあるからということでWikipediaの記述が信用されてしまうという ことにもなるので,顛末をきちんと整理して公表しないととんでもないことになりそう (新聞側が)。 今回は書いた本人が暴露したから良かったけど, そうじゃなかったらずっと信じられてしまっていたんだろうし。
関係ないけど,にちゃんねるのこの記事に関するスレで おもしろい投稿 を見た。消えてしまう可能性があるので転載:
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっかにんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっればじばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとてわざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?ちんゃと よためら はのんう よしろくお, >>116 によると数年前に話題になってたのか。 Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn’t mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be at the rghit pclae. The rset can be a toatl mses and you can sitll raed it wouthit porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deos not raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe. 心理学の世界では半世紀以上前から常識だという投稿もあるな。 さすがに >>319 は読めん。
何かゴールデンウィークに自分のやりたいことをやっておこう, ということでずいぶん前に買ったレコードの取り込み。 針圧の調整からやり直して,と。 まだ全然聞いてないわけだけど,WAVファイルを切り分けるときについ聞いてしまって ホロッと来そうなことが何度か。
うああ,ショックだ。 「スローバラード」はカラオケでの持ちネタなのだ。 なんか泣いてしまいそうだ。
すぐ後で一橋出版の自己破産のニュースを教えてもらった。 すまん,ちょっと酒飲む。
v3からのバージョンアップ半額キャンペーンということで,15ポンドで購入。 やれることが手を遠くに伸ばさなくてもやれる感じ。 v3もまだ使いこなしてないけど,なんだか楽しちゃいそうだなあ。 これ使ってると,紙のマップを書かなくなってしまいそうだ。
大学の一斉購入で『理科系の作文技術』を買わされたと娘が憤慨していた。 とっくの昔に持ってるっちゅーねん,と。
『日本語ヴィジュアル系』(秋月高太郎著,角川書店)はずいぶん前に読んでほったらかしに してあった。こういうのを見てると,自分の世代は古いのも新しいのも目にすることができて おもしろいんじゃないかな,って思う。もちろん私は当用漢字・常用漢字の世代だから, 知ってるつもりでも知らないことが多いんだろうけどね。 それはともかく,自分が意外な程にマンガ的表現に影響されてることには驚いた。 確かに今の私は原稿用紙には馴染まない表現とか, 小学校の作文でやったら苦い顔をされそうな表現とか, 平気で使ってるもんなあ。 そのくせ文法については保守的だ…中途半端なのだな。
特に面白いと思ったのは句読点に関する考察。
文末は,マルが打たれる場所以上の意味をもってしまっているのです。 つまり,文末は,書き手の態度を表す記号や文字が入る場所として認識されているのです。 句読点はもともと区切り記号であって文字ではない。読みやすくするための補助記号だ (賞状などには句読点を使わない)。だからメールやブログ,ケータイ小説などの ように改行で文末を表現できる媒体では旧来のテンマルは不要であり,そこに 絵文字や顔文字が入るのは表現の幅を広げるというプラス要因しかない。 メールに絵文字が多用されるのは文章表現の未熟によるものと考えてしまっていたが, それは新しい表現を認めない偏狭さかもしれないということか。
娘がケータイを使い始めた頃,「ちゃんと絵文字を使いなさい」と友達から指導を受けたという。 パソコンメールから入った彼女にとっては, 絵文字を使う理由が理解できなかったのかもしれない。
ジョーシン09春 のパネルでフロアから発言した内容について…書こうと思ったのだけど, もうかなり忘れてしまっている。 断片的にいくつか書いておこう。
操作教育に対する批判は高校・大学の両方から根強くあるが,だったらなぜ大学側の人が高校の情報科に失望した理由として「WordやExcelをろくに使えない」という声がでるのか。 情報はコンピュータと切り離された方がいいのかもしれない。 むしろ「勉強科」という教科ができるべき状況になっているのではないか。 操作教育に関してはそのままの話。 たとえば私自身はワープロをほとんど使わない…それはLaTeX本を書いた人のせいだ, と冗談めかして言ったが,LaTeXを使うことや本に書かれていたSGMLに触れたこと,
私にいくらかの「ワープロ力」をもたらしてくれたと思っている。 だからWordでも一太郎でもある程度の文書作成はできるつもりだ。 本当に求められているのはそういう能力なんじゃないのか? もちろん,基本的な操作能力はもともと求められているものではあるが。
今はコンピュータに関係することが何でも「情報科」に押し付けられているところがある。 ならば情報とコンピュータを一度切り離した方がいいのかもしれない。 そうすれば逆に,コンピュータに関わる勉強としてやらなくてはいけないことが何なのか 見えてくるのではないか。
「勉強科」と言ったのは梅棹先生の『知的生産の技術』のあとがきにあった「情報科」に 通じるものであり,前段で「切り離した」ものでもある。 コンピュータという便利な道具ができた40年の間に, 知的生産の方法も変化してしかるべきだと思うのだが, 学校でやってることはそんなに変わっていないように思われる。 勉強というものそのものを見直さないで十年一日のような授業をやってていいのか, と旧来の教科に言いたい。
11日は アドミンティーチャーズ 第一回勉強会ということで大阪に行っていた。 松本氏はもうそろそろホチキス先生という名前から解放されても いいような気がするのだが…それはともかく,システムを内製する考えに ついてはかなり近いように思われた。技術的な能力が求められるのは当然だが, それ以前に業務分析や学校システムのデータフローが作れなくてはいけないからだ。 (彼のメールにあった言葉を借りて言えば) 「仕様をどう作るか」が先にあって,次にそれを「どう実装するか」がある。 その仕様を外の人にきっちり説明できる教員がいるとは思えない。
質疑のときに「それに加えて重要なのは政治力だ」という発言を行なった。 学校の業務を分析して仕様を作り,実装した後,さらにそれを学校の業務として 位置付けなくてはいけないからだ。 でないと,物好きが作った一過性のシステム, あるいは学校内の外注システムと扱われて苔むしてしまう。 私自身,学内でここ十数年の間にやってきたことの多くは, 結局そのような政治に介入するための下積みであったようにさえ思える。 まあ会議が増えて授業やコード書きに専念できない今の状況には不満も非常に多いのだが。
こっちは「情報教育」カテゴリじゃないな…まあいいか。