VMware on linux 2.6.29
モジュールのコンパイルに失敗する件は Momonga Linux Wiki で紹介されているパッチを当てることで解決した様子。
といってもカラオケで歌いたかったわけではない。 職場の近所のカラオケボックスではコンセントを使わせてもらえるということなので, パソコンを持ち込んでボーカル録りをしてみようと思ったのだ。 Vista上で Music Studio Producer を使って…しかしときどきMIDI演奏が止まるのはなぜ? 咳がおさまらないことや(そんな状態でBの音でシャウトしてよかったのか), 久しく音楽を離れていて感覚がだめだめになっていることもあって, とても使い物にはならないのだけど, この店なら作業ができるということが確認できたのでよしとする。 次はRosegardenでも試してみるか。
最近一部で話題になっている腕時計が届いた(通販)。 慣れてないと足し算してしまうわけだが,先日辰己先生はこう言っていた:
(ちょうど30分の表示になっている時計を見て)これを16+8+4+2で30分 と読んでいるわけではない。 CODE 011110 という表示の CODE 1111 が15,それを1ビット左シフトしているから30,と読むのが(僕にとっては)自然だ。
Googleカレンダーのオフライン版というのがあるのだけど, Debianのiceweaselからはなぜかインストールの表示がでない。 しかたないので直接 http://dl.google.com/gears/current/gears-linux-opt.xpi を呼び出してインストールした。 しかし,使わないかもしれないなあ。
昨日は ジョーシン09春 だったのだが,そのことはいずれ時間を作って書くことにして,その後の話。 ほとんど常宿になってる秋葉原のカプセルホテルを出て, まず湯島天満宮に手を合わせにいく…受験生が二人お世話になってます,ということで。 帰り道に神田明神でIT情報安全祈願のお札というかシールをいただいた。
秋葉原の店を適当に冷やかしたあと,ラーメン二郎の神田店を目指したのだが, 着いてみると日曜は営業していないという。まあ仕方ないな。 二郎は新宿で一度食べたことがあるし。
そのあと銀座の伊東屋…を目指すはずだったのだが, つい丸善日本橋店に吸い寄せられる。ここにもペリカーノ(ジュニアとかフューチャーとか つかないやつ)があるのね。伊東屋にしかないもんだと思ってた…もっとも, 2008年限定モデルはないようだけど。 適当にふらふらして,手ぶらもなんだなということで『岡潔』(高瀬正仁著,岩波新書) を購入。
で,もともとの目的地である伊東屋へ。目的は計算尺を手に入れるため… だったのだけど,店員さんに聞いてみたら「丸いのなら3階にあります」とのこと。 それだったら名古屋の東急ハンズでも買えるねん。 でもメルシー券を使いきっておきたかった(来年1月までしか使えないらしい)ので, 一番小さいのを買ってみた。CONCISEのNo.27N。 ディジタルの手動計算機がそろばんなら,アナログは計算尺だろう, ということで授業のネタに使えるかもしれないとは思うものの, うまい提示方法がまだ思いつかないな。
帰宅してから使い方を長女に少し見せて「これ,対数だよ」というとすぐ納得
できた様子。うんうん,よくわかっているようで嬉しい。\

目的は達したので,道沿いの 日本橋屋長兵衛 で,バレンタインのお返しのお菓子を買って東京駅へ。 新幹線では万かつサンドとビールで撃沈。
昨日告示されたのだけど, 関連資料 にもあるようにほとんど変わってないのね。 パブリックコメントへの返答も二項目しかないので, 残りは「解説」でぜひ対応してもらいたい。 それはそうと,その返答の中に「情報Aは発展的に解消」と書いてある。 やはりそう解釈していいんだ。 さて,時間を作ってじっくり読むことにしよう。
数学では
統計が必修的位置付けになると数学的能力が落ちることが懸念される という意見があったらしい。この人のいう「数学的能力」っていったいなんなんだろう。 まさか今の入試問題に対応する能力のことじゃないよね
。 私は生徒(少なくとも我々が高校生だった頃以降も含めて)の統計に関する 数学的能力が弱いことをずっと懸念していたのだけど。 今までの内容では 確率・統計分野によって統計的視点が養われることにはならなかったと考えている。 期待値や分散の計算もあったけど,それはΣの計算の応用問題でしかなかったし。
Debian sidのghostscriptが中途半端に8.64になっているので,
日本語が使えるように設定。
cidfmapとかがない!と思ったら,
libじゃなくて
Resource/Initに移動してたのね。
IPAフォントを使うように設定を書いてみたのだけど,それだけではうまくいかない。 どうやらCMapが8.63の方のディレクトリにしかないのがいけないようで, シンボリックリンクを作ってやることで解決した。
ぐぐってみると,8.64では 縦書き句読点が正しくなった らしい。なるほど, 表示例 を見ると,確かにできている。というか,今までだめだったのね。 縦書きしないから気がつかなかった。
朝のニュースで高校の学習指導要領が今日告示されると聞いて, 朝からずっと文科省のサイトを DEL DoS攻撃 定期的にチェックしていた。とはいっても普通の仕事はあるわけで, 学年末テストの返却を終えて席に戻ると,IRCで石田先生がなくなったという噂話が。 そんなこんなでtwitterやあちこちのブログでそんな話が出始め, サイバー大学のプレスリリース を見るに至って,ああ,本当だったのかと。 直接お会いしたのは一度だけで,そのときにはミーハー的に眺めていただけなのだけど, まさかそれから数年もしないうちにこんなことになるとは思ってもいなかった。 直接の影響としてはやはり『プログラミング言語C』だ。 訳に問題があるとの批判はあるが, 私がプログラムをそれなりにでも書けるようになったのはあの本と柴田望洋氏のC++の本の力 によるところが大きいと思う(別なところで奥村晴彦氏のLaTeX本にも強く影響されている)。 ありがとうございました,と言いたい。

MTさんが 絶賛している ので『カラフル』(森絵都著,文春文庫)を読んでみた。 「生前の罪」が何なのかは序盤でおよそ見当がついてしまったので, どうやってそれを見つけるのかを楽しみに読み進めた。 素敵なハッピーエンドだったと思う。 できすぎたエンディング,それはメルヘンなのかもしれない。 でもいいじゃない。
それとは別に心に残ったのは唱子の
小林くんの世界はとっても深くて,とっても透明で,きっととっても,そこでは安全なの というセリフ。彼女の言う「小林くんの世界」はある時期の私がずっと作り上げて篭もろうと していたのと同じものだと思った。論理によって作られた無機物の結晶体, そこにある「普遍」に憧れていたのだ。 でも唱子はそれを「安全」という言葉で表現した。 それはその世界が逃げ場所でもあり得るということに他ならない。 私がそのことに気づいたのはかなり遅い時期だったように思う。 高校の数学の授業で扱うのは前の前の世紀にできあがった話ばかりだから, その「安全」にひきこもっていることもできた。 しかし情報では。 そしてそのことがもたらした変化は教科教育のことだけではなかった。 このめぐり合わせを誰に感謝すればいいのだろう。
ところで,えーと,この小林という名前は『おまけの小林クン』とは関係ないよね?
IRCで友人が薦めるので『つづきはまた明日(1)』(紺野キタ著,幻冬舎)を読んだ。 ほんわかである。こういうのは好き。 でも各キャラクタのまだ語られてない事情がいくつもあるんだよね。 まあ語らなくてもいいのかもしれないけど‐キャラクタのプライバシーを暴きまくるのは いい趣味ではない。 ところで,この絵の感じが誰かに似ているような気がするんだけど… 思い当たる名前が出てこない。うーむ。
『英語の発想・日本語の発想』(外山滋比古著,NHKブックス)の感想も書いておこう。 短い話ばかりなのだけど,その中で印象に残ったものを。
日本語の文章構成は△型で,英語は▽型である,というのはよく言われることだ。 それを読んで, 森永卓郎と尾木直樹の対談にあった話を思い出した。 どちらが言ったのか忘れてしまったが, 海外の大学で学んだ経済論が間違った形で日本に持ち込まれているという。 というのは,大抵の場合大学の講義は大胆な仮定のもとでの経済論を語るのだが, 留学したての日本人はその仮定が語られる最初の授業では耳がついていかない。 ようやく耳が慣れてきた頃になって極端な論が進んでいることに気づき 「最先端の経済学は日本の常識と違う」と誤解して日本に持ち帰るというのだ。 私も,情報の最初の授業で多くの時間を使って行っているガイダンス的なものが 生徒にうまく伝わっていないと思えてならない。 生徒にいきなり▽型の話をしても受け付けにくいということがあるのかもしれない ‐かくいう私自身もそうだったし。
明朝体の縦線が太いのは欧文活字が縦線中心にできていることに倣ったのではないか, だとしたら文字の進行方向が90度違うのを考慮していないのはいかがなものか,という 記述があった。欧米追随である可能性を否定はしないが,それだけではあるまい。 漢字は横線が多いのでそれを細くしただけではないのだろうか。 もちろん漢字が作られるときに縦書きだったから横線が多くなったという可能性もあるので, ニワトリとタマゴの話のような気がしないでもないが。
私は縦書き横書きも気にしないのだけど,気にする人は確かに気にするようで, それが理由で青空文庫に抵抗があるという人もいる。 『日本語ヴィジュアル系』(秋月高太郎著, 角川書店)によると,オ段の長音に「う」の字を用いる理由として金田一京介は 旧かなづかいでもウ音便などで定着していたことの他に,「う」という字の視覚的要素(上から 下に流れる形)をあげていたらしい。 後者の理由が成立するのは縦書き,しかも楷書でない流れる字を想定しているのだろう。 この点に限らず,日本語の文字は縦書きを想定して作られたものであるから, 横書きにはいくらかの難があるという論を私は否定するものではない。 ただ,そんなことがどうでもよくなってきた人たち(私も含めて)もいるということも確かだ。 その点については同書の主張とも重なる点があるのでまた後日。