個人情報流出を苦に自殺
Winnyで児童の個人情報を流出させた教員が自殺したという ニュース がある。 本人がWinnyの使用を認めているということで流出は自業自得なのだけど, 自殺は解決ではないわな。 小学校ということで子供との距離が近い分, 悩んでしまったのかなあとか思ったりはするけど。
Winnyで児童の個人情報を流出させた教員が自殺したという ニュース がある。 本人がWinnyの使用を認めているということで流出は自業自得なのだけど, 自殺は解決ではないわな。 小学校ということで子供との距離が近い分, 悩んでしまったのかなあとか思ったりはするけど。
少し DEL 現実逃避 時間ができたので,のしろさんがSOIで公開している 授業 を見た。といってもビデオは見られなかったのでスライドだけだが。
比較すると私のやっていることは非常にトップダウン的であり, 先に用意した大分類の枠にしばられているところがあると感じた。 原因として思い当たるのは,定期試験のことがずっと気になっているということだ。 つまり,上記した大分類の縛りというのは従来教科のやり方であり, それをはずしてしまうと生徒が勉強しにくいのではないかということを気にしているのだ。 その点,彼の示しているものはもっと柔軟だ。
今年は情報科には二人の教育実習生が来ていたのだが,今日でおしまい。 日誌の字がすごく汚いとか, 声が十分に出てないとか, そんなわかりやすいこと以外にもいろんな面でまだまだなんだけど, 情報についてちゃんと高等教育を受けた人たちが教壇に立ってほしいとは思っているので, 頑張ってもらいたいところ。 そう思うと,情報だけの免許では採用がない今の状況は辛いなあ。
ふと思い出した。 自分が教育実習をやったときに生徒に書いてもらったアンケートの一枚に
いいお嫁さんみつけてください。 と書いてあったのは,いったいなんだったんだろう。
帰ったらテレビで 「たけしの本当は怖い家庭の医学」 をやっていた。最初の話題が, ストレスからくる非定型うつなのだが, そこであげられていた症状が
食欲が増す よく眠れる 手足が鉛のように重い 好きな人と話すと症状がやわらぐ 突然キレる ベッドから起き上がれない 無性に悲しくなる イライラする というものなのだが…あのー,全部あてはまるんですけど。 休みの日は一日中寝てたりするし。 昨日はどこぞの大臣が自殺なんかするもんだから,ひきずられて眠れなかったけど。
ここんとこ 「フューチャリスト宣言」(梅田望夫・茂木健一郎著,筑摩書房,
)と「脳の中の人生」(茂木健一郎著,中央公論新社,
)を読んでいる。これを読んでようやく,茂木氏が「アハ」の人であり 「プロフェッショナル/仕事の流儀」 の司会であるということに気がついた。 梅田氏と茂木氏のポジティブさには恐れ入った。 特に,茂木氏はすごくラジカルだ。 「偶有性の受容」は重要なキーワードだと思う。
面白かったのは,日本の入試は談合だという話。 試験範囲をがっちり決めてしまってそこから逸脱することは一切許さない, 人工的な競争・競技だというのだ。 笑ってしまうほど同感だ。 なぜ笑ってしまうかというと, 私自身がその「競技」をうまくやれるよう努力してきたし, それを指導してきたから。 しかし今「情報」の授業を担当するようになってそれが変わってきた。 なぜなら「情報」にはまだ競技とよべるだけのルールができていないからだ。 その中で少しでもいいものを生徒に与えたいし, そもそも何が「いい」なのかについても考えている。 そういったことで悩むことが,今の自分には非常に楽しい。
また,学歴が自慢になるのはそれを手にする者が少ないからであり, その希少価値は大学の物理的リソースの制限に起因する。 しかしそれに相当する知的スキルを誰もが入手できるようになったら, 学歴は自慢にならなくなる。 そのときアピールできるのは「自分は何を学んだ」「何に所属している」ではなく, 「自分は何をした」「これから何をする」だと。 実は昨日ある研究会で愛知教育大学の 江島徹郎准教授 に講演をしていただいたのだが,そこで江島氏が語ったバーチャル大学や
科学の醍醐味は「わからないこと」にあるはずなのに, 学校もテレビも「わかったこと」を「わかりやすく」伝える努力ばかりをしている。 実はそのことが子供の好奇心を削いでしまって「理科離れ」につながっているのではないか との指摘にもなるほどと思う。
辰己先生の 研究雑報 で,今週のAERAの記事「携帯オンリー デジタルプアの壁」の話題があったので, 買って読んでみた。表紙はアンジェラ・アキ。 AERAって,電車の中吊り広告のダジャレしか目に入ってなかったからなあ。
さっきテレビで, マックやネットカフェに寝泊まりして日雇い派遣で食いつないでいる若者の特集をしていた。 週払いに切り替えてまとまった金額を受け取れるようにしたいのはやまやまだが, その間の食い扶持をつなぐ費用が捻出できないという。 AERAの記事にも,パソコンが使えれなければ時給の安い仕事を受けざるを得ない, かといってパソコンを買って勉強しようとしてもその資金がない, そんな風に携帯日雇いスパイラルから抜け出せないという状況が書かれている。 発展途上国の子供にありがちなこのスパイラル(学校に行かせた方がいい仕事に就けることは わかっていても,目先の労働力として使わざるを得ない)が, この国の青年にも起きているというのだ。
ふと,内田樹の「下流指向」に
文化資本は統計的には正規分布してないんですから, 下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない から,文化資本の階層は拡大する一方だと述べられていたのを思い出した。 「上流」を知らない「下流」には, 文化を得るためのモチベーションさえ得る機会がないというのだ。
いくら携帯が進化したとしても, 携帯でできることとパソコンでできることが同じレベルになるとは思えない。 情報を有機的に処理して生み出すという点では後者に多くの利があると私は考えている。 その「利」を知らないまま育った者にとっては, パソコンが携帯電話以下の存在にしか見えなくても仕方ないのかもしれないが, それが自分を「下流」に固定してしまうことにつながる危険性を 知る機会くらいはあっていいと思う。 高校の教科「情報」の中で,その助けができればいいのだが。