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カテゴリ:教育 固定リンク
大阪で高校入試問題を半分も解けない高校教師がクビになるという話があった。普段から生徒の質問を無視したりしてたようだが,テストの点数が悪かったのは、準備もせずにいきなり受けさせられたからだなんてことを平然と言えるレベルの教員なのだから,そんな人には質問する方が酷というものだ。府の教育委員会はどうしてこんなに学力が落ちたのかわからんてなことを言ってるようだが,そりゃ考えることをやめてしまった人間の学力はどんどん落ちまっせ。
テストの点数が悪かったのは、準備もせずにいきなり受けさせられたからだ
どうしてこんなに学力が落ちたのかわからん
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学年の生徒に情報モラル教室。講師は株式会社DAO代表取締役の上田敏孝氏。Web3.0やブロックチェーンの話から始まり,その時代にあるべき情報モラルとはどういうものかを考えてほしいという展開だった。情報モラル講習会と聞いて「どうせお説教だろう」みたいに思っていた人がいたかもしれないが,これからの「市民」がどうあるべきかという話だったので逆の意味で拍子抜けした人もいたかもしれない。終わってからも上田氏に質問したい生徒が列を作っていたし,職員室でも話題が続いていた。
北海道教育大学「未来の学び協創研究センター」の公開セミナー「AI/教育情報と学校の向き合い方を考える」を聴講。それぞれChatGPTやBingとの対話を豊かに使っている。それを聞いていて思い出したのは星新一の小説『人民は弱し官吏は強し』の一節にある,星一氏の思考方法だった。
星は自分自身との対話をはじめた。彼は多弁であり,ひとと会う時,相手がなにか言うと,その十倍ほど喋る。しかし,静かななかで一人になると,話しかける相手は自分だけになってしまう。多弁どうしの対話だから,それはしだいに速力をまし,回転し,やがて何らかの結論に到達する。これがいつも,彼のアイデア発見への過程だった。
この多弁な自分との対話は私自身もよくやることではあるが,自分が知らないことが要素として含まれないことが不満だった。しかしChatGPTなどとの対話であればそれが可能になるのではないか。そう考えると,楽しみになってきた。
私は高校くらいまでの数学にセンスという話を持ち出すことには懐疑的だ。もちろん反応の良い悪いといった違いは当然ある。しかしそれをセンスという言葉で片付けるのはどうかと思う。 例えば私はCGイラストがとても好きではあるが,自分では描けない。twitterでの友人には私から見てすごいレベルのイラストを描く人がたくさんいるわけだが,その人たちと自分の違いをセンスという言葉では片付けたくないのだ。もちろんセンスの差があることは間違いないが,「自分にもセンスがあれば…」とは思わない。単純に考えても,今まで書いてきた絵(落書きレベルも含めて)の数が格段に違うわけで,そうやって彼ら彼女らはセンスを「身につけて」いったのだろう。iPadにApple Pencilをつけているくせにそれで絵を描いたことがない私がセンスの違いを云々するのはあまりにもおこがましい。 数学にしても,私自身小さい頃からかなり多くの算数・数学的体験をしてきている。自分の数学に関する能力はそこからきていると考えているので,「センスがあるやつはいいよな」というようなセリフには耳を貸す気さえ起こらない。
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