新たな「非識字者」
facebookで紹介された話。文字はよめるのだけど,それを現実ととらえられない「機能的非識字」が存在するという記事。私は今までずっと,実体験に近いレベルで想像できないことを自分が理解できないということをコンプレックスと感じていた(数学やコンピュータについては,想像を体験と感じられるような,そこそこ出来のいい「モデル」を長時間かけて構築してきたし,外向けの「感情」は演繹で作り上げられるとも思っていた)。こんな風に「具体的」なものにしないと実感できないことを,自分の欠陥だと思っていたのだが,そんな人が決して珍しくはないということのようだ。だからといって,自分が想像できないことの非が免責されるわけではないのだけど,いくらかでもわかっているというのは気休めになる。
もちろんすべての活動が「演繹」でなされているわけではない。無邪気な楽しみを感じる面だってたしかにあることを自覚している。そのことと「楽しいことにしている」ことを果たして区別する必要があるのか,それはあまり考えないようにしたい。
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