万年筆を探していた。 セーラーのリクルート万年筆がお気に入りなのだが,いつの間にか製造中止になってしまった。 普段の書類や文章書きはPreppyを使っているのだが, 手帳用に小さめのがほしい。 少しくらいなら今まで使ってたものよりも高めでもいいと思って探していたのだが, サイズの小さいものはあまりない。 そこそこのところで妥協するかな,と思って万年筆売り場を離れて他のところを眺めていたら, パイロットの Petit1 が案外よさげだった。 キャップを閉めた状態で108mm,はずしてお尻に挿したら133mm, リクルート万年筆より少し短めでだいぶ太めだけど,けっこう持ちやすい。 ぐぐってみると, かなり気に入っている方 もいるようだ。 線が少し太いけど,手帳に思いつきを書きなぐるには悪くない。
入試の処理の途中でまたプログラムをいじったりしてた (Perlのスクリプトをいじるのはいつものことなのだけど, 印刷プログラムのプレビューがおかしかったので調査していた)。 そんなことをしながら「私って,本当にプログラミングが好きなのかな」と考えてみた。
もちろんプログラミングをやってる間は楽しいし, 思った通りに動いたときの快感は他ではなかなか得られないものだと考えている。 でも,本当に自分がやりたいのは,作ったプログラムを使って何かをするということなんだな。 その意味では,こういうものを作りたい(作ってこういうことをしたい)と考えてるのと, 作り方を考えてるのと,頭の使い方が大きく切り離されているように思われる。
だから,欲しいと思うようなプログラムがすべて世の中にあるのであれば, 私はプログラミングをしなくなるのかもしれない。 いや,その状況でもスクリプトで何かの処理をするなんてことは, やり続けるんだろう。 それとプログラミングは何が違うのかと言われると説明に困ってしまう。
一昨日 あんなこと を書いたら, 東大の中原先生のブログに 「ワークショップ疲れという現象の背後にあるもの」 という記事があった。 権威に楯突くはずのロッカーが, いつの間にか権威扱いされてしまうようなものか。 新しい発想を得るはずのワークショップが, ろくなアウトプットも許されず, 結局落とし所を探す(従来通りの)作業の前振りになってしまうのでは, そりゃ「疲れ」もするだろう。
技法や道具は,いろいろなものがどんどん当たり前になっていけばいいと思う。 そして自由な方向に向かえばいい。 それが束縛やつまらなさに向かってしまうのは, アウトプットを本気では求めていないからなんじゃないだろうか。 「俺達よくやったよね」という慰めには確かに快感が伴うのだけど, 本来あるべき目的よりも優先されるものではない。
今日は勤務校の高校一般入試。 多くの人は採点するまでが今日の仕事なのだけど, 私は採点が済んでからがメインの仕事(それまでにもこまごました雑用はあるけど)。 資料作って,会議室ではプロジェクタで表計算の操作して,11時過ぎに終わり。 毎年こんなもんだ。
少し前,NHKの職員募集で
NHKにはあなただけの仕事があります って言ってたのを 「つまり他の人は手伝ってくれないってこと?」と茶化してみたら, 実際そういう仕事はある(たとえば視聴覚教育の担当はNHK名古屋に一人しかいない)という ツッコミがだきわさんから入った。 ああ,どこでもそうなんだな。 勤務校では何年もそのことを言い続けた結果, ようやく後輩とペアを組んで動けるようになったのだけど, そうなるまでの十数年にはいろいろな恨みもある (実兄の葬式に出られなかったこととか)。 後輩が一緒に動いてくれるとはいえ, 仕事が属人的であることに変わりはないわけで, システムとしての対応をなんとかしないと彼もまた同じことで苦しむことになる。 まだまだ手を緩めるわけにはいかない。
最近思うところあって中山正和の本を何冊か読んでいるのだが, そのあちこちで「もう『○○法』がどうのこうのというのはやめよう」と主張しておられる。 ある程度それには頷けるのだけど, 私なんかはまだわかってないから,入り口として「○○法」を求めてしまう。 まあ仕方ないか,まだまだ勉強中だから。
『NM法のすべて』でこんなことを言っている: お釈迦様が仏教を作られたとき, 「私は正法を伝えるが,500年も経てば像法になって,お経をあげたり礼拝したりすれば事足れりと思うようになるだろう。 さらに500年経って末法になれば,坊主が宗教にかこつけて金儲けするようになる」とおっしゃったらしい。 川喜田二郎がKJ法の段級制なんてことを言い出したのも,それが像法化してしまうことをおそれたからだという。 実際『創造性とは何か』の文中で川喜田氏は,創造を目的としない心情陶酔のためにKJ法を使おうとする人がいることを嘆いている。 正法→像法→末法という流れは,いろいろなことに当てはまっている。 形を守ることが自己目的化してしまうのって,日本ではすごくありがちな気がする。 よく話題になる,算数の掛け算の順序にもそういう面があるんじゃないのかな…。
今日は中学入試。 その関係の処理が終わったあと, データ整理の作業をしてたらどうもプログラムの挙動がおかしい。 データが一部消えてしまっている。 「バグみつけた(;_;)」とtwitterでつぶやいたら, 津田さん( ViVi とか「イスカンダルのトーフ屋さん」の作者)から 「再現性のあるバグを見つけたらむしろ嬉しいよね」とコメントをもらった。 それはすごく納得する。 再現や発生の条件をつかんだら, デバグはもう半分以上終わったような気になる。
それはそうと, 去年からデータはSubversionで管理していて, 今年はきちんと差分を確認しているのでわりと安心できる。 面倒だと思って去年はただデータをぶち込むだけにしてたのだけど, どうせトラブったら差分を見て直さなくちゃいけないんだし, それだったらその都度確認した方が結局楽なんだなということがわかった。
退職金が減額される前の駆け込み退職があちこちで話題になっている。 教員についても生徒を途中で放り出すのかみたいなことが言われてるけど, そういう風に生徒を人質にとってものを言うのはやめてもらいたい。 私は普段から,何かに生徒を人質にとられてる思いを抱えながら仕事をしている。 安い手当で休日をつぶすのも, 自腹で勉強のために動きまわるのも, それが何かの形で生徒にとってのプラスになればいいなと思ってのこと。 にも関わらず こういう通知 を出すというのは,余程の下衆だと私は思う。 人格的ふれあいだの職責だの使命感だのと言ったことは言われなくてもわかっている, しかしそれを評価しないという決定をしたわけだろう? そんなわけで,文科省の通知やら何やらにとても胸糞悪い思いをしている。
ネットブートとローカルブートを比較してみた。1台だけならそれほど大きくは違わない (といっても2倍程度は違うのだが)のだが,16台いっぺんに火を入れてみると格段に違ってくる ネットブートの方が数倍遅くなる。 これはClonezillaをつかってローカルブートにする価値はありそうだ。
となると問題はWindowsのイメージ。
ぼやいてたらtwitterで野首さんから「コマンドラインからできるツールあるよ」との
助言をもらったので,ぐぐったりして調べてみた。
どうやら
wmicとか
slmgr.vbsを使うとよさげだ。そんなわけで,見よう見まねでvbスクリプトを書いてみる。
DHCPで割り振られるIPアドレスの末尾の数字をコンピュータ名に使って,
その数字でマシンを識別してプロダクトキーを書き換えるものを作った。
なんとか動くようなので,時間があいたら教室じゅうのマシンの
プロダクトキーを控えて回ることにしよう。
これでだいたい安心…かな?
ディスクイメージを書き戻したときにこれを実行して再起動すればいいってことになりそうだ。
Linuxの方は何もやることないんだけどね。