○○法
最近思うところあって中山正和の本を何冊か読んでいるのだが,そのあちこちで「もう『○○法』がどうのこうのというのはやめよう」と主張しておられる。ある程度それには頷けるのだけど,私なんかはまだわかってないから,入り口として「○○法」を求めてしまう。まあ仕方ないか,まだまだ勉強中だから。
『NM法のすべて』でこんなことを言っている:お釈迦様が仏教を作られたとき,「私は正法を伝えるが,500年も経てば像法になって,お経をあげたり礼拝したりすれば事足れりと思うようになるだろう。さらに500年経って末法になれば,坊主が宗教にかこつけて金儲けするようになる」とおっしゃったらしい。川喜田二郎がKJ法の段級制なんてことを言い出したのも,それが像法化してしまうことをおそれたからだという。実際『創造性とは何か』の文中で川喜田氏は,創造を目的としない心情陶酔のためにKJ法を使おうとする人がいることを嘆いている。正法→像法→末法という流れは,いろいろなことに当てはまっている。形を守ることが自己目的化してしまうのって,日本ではすごくありがちな気がする。よく話題になる,算数の掛け算の順序にもそういう面があるんじゃないのかな…。
だきわ wrote at 2013-02-05 11:21:
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