Twitter社会論(続き)
Twitterの検索はGoogleのような重み付けを行なわず,単に時系列にそって ヒットしたつぶやきを列挙するだけだ。野口悠紀雄の『超整理法』も 分類を行なわず時系列で整理するという画期的なものであったが, これとつながるところがないだろうか。 もっとも野口氏はデジタルを取り入れた『「超」超整理法』を書いているので, 後日それと合わせた考察をしてみたい。
「tsudaる」の語源となった著者がその行為についていくつかの注意点を 述べているが,その中で「話の聞き方」に思うところがあった。 私はtsudaったことはないが,講演などのときにはfreemindやiMindMapを使って メモをとっている。道具は何でもかまわないのだが,この「話を聞いてメモをとる」 というのは訓練していないとできないということだ。たとえば学校の生徒は 授業中先生の話を聞いてノートをとっている…ならいいのだが, 実は黒板のコピーに徹していることが多い。だから(今の三学期の授業が そうなのだが)既にテキストに書かれていることの掘り下げた説明をしても, それをどうやって記録していいのかわからず,手を動かせなくなってしまうようだ (その結果,眠ってしまう)。 もっと言ってしまえば,板書していないものは記録する必要がない, 板書されたことは意味が分からなくても記録する必要があると思っているようだ。 これでは思考することはできんだろうと思うのだが。
脱線したので話を戻す。 外山氏の本に あった ように,日本人の話し方は△型になりやすい。 これはしゃべる側としては楽なのだ…話しながら組み立てていくことができるから。 ところが聞く側は簡単でない…いつ結論が話されるか予測できないからだ。 だから話の筋を集中して追うことが要求される。 生徒達にも,(twitterによらず)こういう訓練ができる場があればいいと思う。 示されたシナリオ通りに話が進み,プリントの空欄を埋めていく作業をするだけでは 身につかない能力だから。
英国では初等教育にネットリテラシの授業を盛り込み, その中でツイッターやブログの適切な使い方を教えることが議論されているという。 危ないものから遠ざけようとする日本のやり方とはくらぶべきもないが, なんといっても初等教育であるということが素晴らしい。 中等教育では遅すぎる…それはネットに限らず,思考法,コミュニケーション法に ついても同様だ。 少なくとも学校現場では戦後たいして進歩してないんじゃないのだろうか。 ブレインストーミング,KJ法,マインドマップ…そういった取り組みが 当たり前になっていないことがもどかしい。それを道具として使わせるためには やはり小学校でないと手遅れじゃないのかな。
最後の対談で勝間和代氏が「私たちIT人間からはtwitterの新しい使い方は 生まれてこない」という発言をしている。この本には「キャズム」という言葉が何度 か現れているが,メールやWebであったように新参者が「勝手な」使い方を 始めて古参が苦言を呈するという情景がキャズム越えには必ずついてくるものでは ないか。私も彼ら同様IT人間だから無理だろう。
最近発表されたiPadの教育利用についてtwitterでも 話されている ようだが,その中で 手で板書することの意味は何か という話があった。 私の今までの感覚では,たとえば数式の計算をパソコン上ではできないから どうしても紙でないといけないことがあるということだったのだが, それは単にインタフェースの問題なのかもしれない。 なぜなら 筆や粘土板で思考が行なえていた のだから。 もちろん紙になることで取り回しが容易になり,それが思考にも自由さを 与えたと想像できる。だとしたらインタフェースさえなんとかなれば iPad上でも数式を,ひょっとしたら紙よりも柔軟に,扱えるようになるかもしれない。 ただ,オールドタイプである私はそれを発想できないだろう。 どうしてもTeXのような一次元的な入力方法か, ワープロの数式エディタ的なものしか想像できないのだ。 素直に デジタルネイティブ に期待しよう。