カラフルとか
MTさんが絶賛しているので『カラフル』(森絵都著,文春文庫)を読んでみた。「生前の罪」が何なのかは序盤でおよそ見当がついてしまったので,どうやってそれを見つけるのかを楽しみに読み進めた。素敵なハッピーエンドだったと思う。できすぎたエンディング,それはメルヘンなのかもしれない。でもいいじゃない。
それとは別に心に残ったのは唱子の小林くんの世界はとっても深くて,とっても透明で,きっととっても,そこでは安全なの
というセリフ。彼女の言う「小林くんの世界」はある時期の私がずっと作り上げて篭もろうとしていたのと同じものだと思った。論理によって作られた無機物の結晶体,そこにある「普遍」に憧れていたのだ。でも唱子はそれを「安全」という言葉で表現した。それはその世界が逃げ場所でもあり得るということに他ならない。私がそのことに気づいたのはかなり遅い時期だったように思う。高校の数学の授業で扱うのは前の前の世紀にできあがった話ばかりだから,その「安全」にひきこもっていることもできた。しかし情報では。そしてそのことがもたらした変化は教科教育のことだけではなかった。このめぐり合わせを誰に感謝すればいいのだろう。
ところで,えーと,この小林という名前は『おまけの小林クン』とは関係ないよね?
IRCで友人が薦めるので『つづきはまた明日(1)』(紺野キタ著,幻冬舎)を読んだ。ほんわかである。こういうのは好き。でも各キャラクタのまだ語られてない事情がいくつもあるんだよね。まあ語らなくてもいいのかもしれないけど‐キャラクタのプライバシーを暴きまくるのはいい趣味ではない。ところで,この絵の感じが誰かに似ているような気がするんだけど…思い当たる名前が出てこない。うーむ。
『英語の発想・日本語の発想』(外山滋比古著,NHKブックス)の感想も書いておこう。短い話ばかりなのだけど,その中で印象に残ったものを。
日本語の文章構成は△型で,英語は▽型である,というのはよく言われることだ。それを読んで,森永卓郎と尾木直樹の対談にあった話を思い出した。どちらが言ったのか忘れてしまったが,海外の大学で学んだ経済論が間違った形で日本に持ち込まれているという。というのは,大抵の場合大学の講義は大胆な仮定のもとでの経済論を語るのだが,留学したての日本人はその仮定が語られる最初の授業では耳がついていかない。ようやく耳が慣れてきた頃になって極端な論が進んでいることに気づき「最先端の経済学は日本の常識と違う」と誤解して日本に持ち帰るというのだ。私も,情報の最初の授業で多くの時間を使って行っているガイダンス的なものが生徒にうまく伝わっていないと思えてならない。生徒にいきなり▽型の話をしても受け付けにくいということがあるのかもしれない‐かくいう私自身もそうだったし。
明朝体の縦線が太いのは欧文活字が縦線中心にできていることに倣ったのではないか,だとしたら文字の進行方向が90度違うのを考慮していないのはいかがなものか,という記述があった。欧米追随である可能性を否定はしないが,それだけではあるまい。漢字は横線が多いのでそれを細くしただけではないのだろうか。もちろん漢字が作られるときに縦書きだったから横線が多くなったという可能性もあるので,ニワトリとタマゴの話のような気がしないでもないが。
私は縦書き横書きも気にしないのだけど,気にする人は確かに気にするようで,それが理由で青空文庫に抵抗があるという人もいる。『日本語ヴィジュアル系』(秋月高太郎著,角川書店)によると,オ段の長音に「う」の字を用いる理由として金田一京介は旧かなづかいでもウ音便などで定着していたことの他に,「う」という字の視覚的要素(上から下に流れる形)をあげていたらしい。後者の理由が成立するのは縦書き,しかも楷書でない流れる字を想定しているのだろう。この点に限らず,日本語の文字は縦書きを想定して作られたものであるから,横書きにはいくらかの難があるという論を私は否定するものではない。ただ,そんなことがどうでもよくなってきた人たち(私も含めて)もいるということも確かだ。その点については同書の主張とも重なる点があるのでまた後日。
tkamada wrote at 2009-03-12 14:17:
わたやん wrote at 2009-03-12 16:42:
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