「子どもは判ってくれない」を読みつつ
仕事中に待ち時間がけっこうあったので少し読み進めてみた。印象に残った考えをいくつか書き並べてみる。
- 論理力があるというのは,手慣れた道具からその場に合った道具への持ち替えができること。
- あるものの存在を認めることとそれを是とすることは違うのに,それが混同されがち。
- エライ人は,物事を単純な原則でとらえようとしすぎる。
- 現実が複雑であれば,話も複雑にするのが道理。
- 結論を出すことと,正解を出すことは同じではない。
犯罪の存在を認めることは,それを是とするということではない。誰も犯罪は望まないけどそれはゼロではなく,そういった「不愉快」との共存を認めざるをえない…みたいな話とか。
日本には低リスクを許さない,すなわちリスクはゼロでなくてはいけないという風潮が強くある。リスク対策にはリスクの存在を認めることが必要なのに,「リスクの存在を認める」=「リスクを許容する」=「リスク発生を仕方ないとあきらめている」と読みかえてヒステリックに騒ぎ,結果として対策への道を封じていることさえあるように思う。教育分野は特にその傾向が強いような気もする。
関係ない話だが,著者名の「樹」を「たつる」と読むとは思わなかったし,「たつる」で変換できるとも思っていなかった。失礼しました(実は本屋で検索できなくて困ったのだった。なぜか「こどもは…」で書名検索して出てこなかったし,「うちだ」で著者名検索すると大量に出てくるし)。
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