牛馬より安い労働力
おもしろいブログ記事を紹介されたのでメモ。「社畜の異常な愛情/または日本人は如何にしてラクするのを止めて労働を愛するようになったか」。自分では持ってなかった視点なので,興味をひかれた。
人々が飢えるような状態では牛馬を維持するコストがバカにならないため,より安い労働力として人間が働いた,そのため「額に汗」を異常に重んじるようになったのではないかという。そういえば,Excelでの非効率な手作業に嫌気が差して,マクロを作って効率化したら,褒められるどころか「ズルいことをするな」と咎められたという話を聞いたことがある。実話かつくり話かわからないけど,現実にあっても不思議がないことではあると思う。
学校という場での異常な禁欲も根は近いところにあるような気がする。先日部活の試合があったのだけど,待ち時間のときにある生徒がスマートフォンに外付けバッテリをつないでいた。そんなものを持ち歩くくらい,彼はスマホをよく使っているということだ。もちろん,ゲームをやっていることも多い(最近はやりなのは,石を指でぐるぐる移動してそろえるやつかな)のだが,それだけではない。
生徒がiPadやタブレット,ノートパソコンを持ってくることは,今後どんどん自然なことになってしまうと思うんだけど,学校ではスマホやケータイ,場合によってはKindleや電子辞書さえ禁じてしまう─それらはゲーム「も」できるから。プログラミングの学習でゲーム作りを禁じられていたらと思うと,ぞっとするのだがなあ。遊びを禁じられた学習はつまらない。
もちろん手作業の大事さはそういう研究結果によらなくても,身をもってわかっている。それでも,そのことは子供をテクノロジから遠ざける理由にはならない。どうせ彼らは両方使うようにならなくてはいけないのだから,やるべきことは両方に近づけることだ。それを制限しようとする教師は,自分たちが生徒だった頃のように「額に汗」をしろと言ってるだけじゃないのかな(その手作業だって決して洗練されたものではなかったし,多くの現代人のIT利用だって同じようなものだとも思うが,それはまた別の話)。
我々教師は「やらなくてはいけないこと」「やるといいこと」「やってはいけないこと」をよく口にする。しかし一方で,生徒がそれらだけで動くようになることを危惧する。上記した3つだけなら,本人は何も考えたり感じたりする必要がない。この点については,名古屋ライフハック研究会#18のLT「教員としての雑感」で述べた通り。自分たちは「やらなくてもいいこと」「どうでもいいこと」「やっても構わないこと」をいくつも,熱心にやってきた。それらが何かに結びつくなんてことは考えず,実際それだけに終わったものもたくさんある一方で,自分の重要な部分を形作るに至ったものも少なくない。
大人には「いらんこと」を楽しむ手本を見せる責任がある。子供たちが去勢されてしまわないうちに。
たろ wrote at 2013-02-17 15:52:
わたやん wrote at 2013-02-18 09:20:
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