文章にするという縛り
先日『創造性の科学』(市川亀久彌)を読み返していて,おもしろい記述を見かけたので,忘れないように書いておく。1970年の本なので「今日」とはその当時のことなのだが,そんなに状況は変わってはいないだろう。
今日,各種の漫画が流行してきているのは,最近の若者達が,テレビの強い影響で視覚的人間になっていったためだという人がいる。しかし,私はこの考え方だけを支持することができない。
端的にいうと,従来の教育体系や,学問体系における主張が,必要以上に,言語表現に頼りきってきたために,内容の高い,しっかりした情報というものは,いつの間にか文章の形態(論文)によらなければならないというような,誤った考え方が主流をなしてきたことによるものと思う。(略)
この文章はこのあと,図型情報に適した情報もあるという話に続くのだが(この本自体,冒頭から50ページに渡る図版が続く)それはそれとして。我々が誰かに情報を提供しようとするときに,体裁の整った文書の形にしなくてはいけないという縛りをかけてしまってはいないだろうか。確かに「書類」はフォーマットを整える必要があるだろう。でも我々が持ってなくちゃいけない情報は書類になるものばかりじゃない。完全に文書になりきらなかったり,感想の域を出なかったり,それでも残すべき「感触」というものは確かにあるのだ。体裁を整えられないために,それらが「たまたま話をしたときに居合わせた人の記憶」にしかとどまらないことはとてももったいない。
今やってる授業の話とも関連するのだった。
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