不定期戯言

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2010.02.02 (Tue)

しこうする力

・twitterの@hyukiさんのつぶやきで紹介されていたブログに目が止まった。

・私は生徒だった頃から勉強することで何か見方とか世界とかそういうのが変わることを面白がっていたのだけど,実のところそういうのは少数派なのだろうということは最近になってわかってきた。多くの人はただの苦行としてやっているんだろう。その苦行に疲れた子供が「○○は何の役に立っているのですか」なんて質問を投げてくることがあるが,その程度のレベルの内容が大して役に立つわけないじゃん。むしろ意味があって応用が利くのはその獲得過程だと思うのだけど,肝心のその部分をノウハウで乗りきろう(あるいは「乗りきらせよう」)とする手合が多いように見える。筆者の言う思考する力と試行する力を奪っているような気がするはそのことだろう。試行しないと思考ってできないと思うんだがなあ…そんな余裕がないときはわざと間違わせて正しいやり方と対比させたりもしたけど,これっていやがられるんだよなあ。「最初から正しいやり方を教えてください」って。だいたいからして,正解しか知らないのってつまらないっしょ。

・上に「その程度のレベルの内容が」って書いたのはaomoriringoさんの「高校で勉強するような数学は実社会では全く役に立ちません」にある高校で勉強するような数学は実社会では全く役に立ちません。レベルが低すぎて、全く使いものにならないのです。と同じ話かな。これが私のコンプレックスの1つとつながっていることは否定しない。「勉強嫌いの人に贈る言葉1」もたぶん同じことで。

コメント(2)

ちゃか wrote at 2010-02-03 14:11:

最近見た映画で、「答えを人に求めんなよ。自分で出してこその答えだろ」っていうセリフが妙にかっこよく響きました。今、何かを調べることがすごく容易になっていて、それも思考する力と試行する力を奪っている一因のような気がします。中学生の電子辞書とか、高校生がレポート作るのにウィキ丸写しとか。大学生も…。

わたやん wrote at 2010-02-04 11:35:

その台詞は確かにかっこいい。
正解は誰かが持っているもので,正しさは誰かに判断してもらうもの,という「誰か」依存が無責任だってことにどこかで気づいてほしいとは思っています。調べることはいいんだけど,正しさの判断を委ねるのは違うだろう,と。

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