日本情報科教育学会三周年記念フォーラム
ということで東京タワーのすぐそばの会場へ(帰り際にライトアップされたタワーを見た。うん,綺麗だった)。夜行バスで来てたせいでだいぶ眠かったのだけど,カラー筆ペンを出してマインドマップでノートを取り始めたら頭が目を覚ましたようだ。以下,話を聞いて考えたこと:
経産省が定義づけた「社会人基礎力」につながる力のいくつかを,情報科は背負っているように思う。チームワーク力とかコミュニケーション力とか(体育もやってるかな)。そういったものを,情報科だけが背負うべきなのだろうか←これを疑問文にしたのは2つの意味がある。1つは,他の教科でも当然やるべきものだから振り分けて実施してもらえば(あるいは私が何度か口にしている「勉強科」を作って行なう),情報科として真にやらなければならないものだけが残るだろうということ。もう1つは,情報科がこれを背負うことによって,生徒たちに不可欠な教科としての地位を確保することもできるだろうということ。次の学習指導要領に向けて,どちらかに舵を切るのだろうか。
いまどきは大学生にノートのとり方から教えなくてはいけないというケースもあるという。勉強の仕方そのものがおかしくなっているのだろう。高校までの学校の勉強は,情報科を除いてすべて(川喜田二郎氏が『発想法』でいうところの)書斎科学になってしまっているように思われる。一方,情報科は野外科学であることを求められている。この違いはノートのとり方にもあらわれてくる。書斎科学であるなら,現資料はずっととどまったままだ。だから板書を写すということでとりあえずのノートはできるし,教える側もそれで満足してしまう。たいていの場合,生徒に要求するのは教えた内容の「再現」だからだ。そしてすべては形式だけを整える儀式になる。
従来教科は学習指導要領が変わっても何も変わらない。もちろん単元の加除はあるが,ただそれだけだ。ただ入試という「競技」のために特化し,その結果として学校の勉強がガラパゴス化している(国際競争力の足しにならないという意味で)。たとえば数学の「データの分析」は(教科書会社方面から漏れ聞くところによると)できるだけ軽く扱われようとしているようだが,そういうのを聞くと彼らには日本人の統計に対する弱さへの危機感とかなくて,ただ国内競技の成績だけを気にしているようにしか思われない。この改訂なんて「迷惑なルール変更」としか考えていないのだろう。
何人かから共通して出たのは,情報科教育の質保証・質向上はつまるところ教員のそれであるが,その妨げになっているのは,たとえば他教科との兼担であり,職場内SEという役割だということだ。その点では私は恵まれた状況にあると言えるだろう。今は情報だけを担当しているし,職場内SEであることを業務と位置づけてもらえている(もちろんそれを勝ち取る苦労はあった。ネットワーク管理を業務と位置づけられるまでに十年以上かかったし)。しかしそれは必ずしもすべての情報科教員にあてはまることではない。かといって,私が今の状況を作るために何年も声をあげ続けてきたのと同じことを他の人たちもやれというのは現実的でない気がする。
そんなことを考えながら神田神保町の古本屋をめぐっていたら,『やさしい情報整理学』(かいきよみち著,社会思想社現代教養文庫729)をみつけた。梅棹先生の『知的生産の技術』の実践みたいな内容かな。これも何かの縁だろう。もちろん即購入。
tss wrote at 2010-12-26 10:02:
だきわ wrote at 2010-12-27 15:04:
にしばたりつこ wrote at 2010-12-29 02:54:
わたやん wrote at 2010-12-31 00:14:
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