プリキュアが最終回だったとのこと。最初のシリーズを含めて一度も見たことがないのではあるが,話題にはなっているので耳には届く。漫画家田中ユタカさんのtweetに「無限の力」にも「無限の愛」にも頼るなとはっきり言っちゃっいましたね
とあったのを見て,数年前に無限と有限に関する話を生徒の前でしたことを思い出した。職場の旧サイトに残っているのだけど,もう管理していないところなのでこちらに転載しておく(一部修正)。自分の文章を転載するというのも妙な話ではあるが。
Donald E. Knuth先生が1990年に「3:16 Bible texts illuminated」という本を出版された。これは聖書の中から第3章16節を集めて,それについて研究して自分なりに翻訳・解説し,一流のカリグラファによるカリグラフィとともに本にまとめたものだ。この本には59個の第3章16節が集められている。聖書には3万の節があるというから全体から見れば 0.2%だ。たかが0.2%である(もちろん氏は敬虔なクリスチャンであるから,その部分だけを研究したのではないわけであるが)。しかし聖書が有限である以上,この0.2%には意味があるはずなのだ。
有限で大きい数というと昔はgoogol(10の100乗)やgoogolplex(10のgoogol乗)が取り沙汰されたが,実はKnuth氏が世界一大きい数を開発したということでギネスブックに乗っているらしい。それは次のようにしてできるものだ。10×10 というのは10を10個足したもの,10の10乗は(さっき定義した積を用いて)10を10個かけたものである(以下では10の10乗を10↑10と書くことにする)。次は10↑↑10というのを10↑10↑…↑10と定義する(10は10個で,右から計算する)。続いて10↑↑↑10を 10↑↑10↑↑…↑↑10と定義する(同様)。彼はこの数をファンシーK,10↑↑↑ファンシーKをスーパーKと名付けた。これはとんでもなく巨大な数だ。正直なところ私は↑↑くらいからもう想像ができない。もちろんこれらの数は有限ではあるが,我々が考えられるものすべてがこの数の範囲に収まるだろう。氏はMITで行なった講演の中で「神は有限であってもかまわない」と言っている。スーパーKのレベルでの有限ならば,それは現実には制約にはなりえないからだ。
私は大学4年時のゼミで無限集合に関する振舞を勉強してきた。無限集合の大きさというのは1を足しても2倍しても2乗しても変わらない。ところが有限ならば1を足すだけで大きくなる(前述のスーパーKでさえ)。実はこれが有限と無限を区別する一つの考え方(デデキント無限)なのである。我々の世界が無限であり,能力が無限であるなら,私一人いなくてもかまわない(別の人が私の分をやればいい。無限なら2倍しても変わらないのだからその人の負担は増えないのだ)。我々の世界が有限であるとするなら,どんな些細なことも意味を持つから,一人一人の存在が意味を持つ。「親離れ」の一つの解釈として,親の保護下では無限の力があると錯覚していた子供が,実は自分には有限の力しかないことを認識する,という考え方がある。「若者には無限の可能性がある」なんて嘘っぱちだ。我々は有限の可能性の中で,有限の世界に向かって,有限の能力で,有限の仕事をしている。
我々は有限だから一人一人の存在が意味を持つ。だから私は人がやることを大事にできない,踏みにじるといったことが一番許せない。それはその人の存在を認めないということだからだ。私は他人の存在を認められない者を人間とは認めない。以前あるクラスで授業中に「私は君たちを人間として扱いたいのだが,現状では無理だ」と言ったのはそういう意味だ。人がやっていることを踏みにじる者を人間として扱うことはできない。
田中ユタカさんのマンガも,同じように有限や現実に足をつけようとしているところがあって,そういうところを私は好きなのだろうと思う。殴り殴られる痛みを知ってもいよう。身体の中や外で血が流れていることを知ってもいよう。自分の愚かさにさえ気づかない愚かさを互いに責めたり許したりもしよう。他人より自分を守る弱さと強さを持ってもいよう。全能の神なら意に介さず放置してしまえる世界(新井素子さんの作品にそういう情景があったな。どの話か忘れたけど)に,ひ弱な人間がか細い牙をむいたりもしよう。そうやって,生きることを楽しんでいよう…いくつもの不愉快なことも抱えながら。
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