学年通信
久しぶりに学年通信の当番にあたった(年1回は回ってくるんだが)。そんなわけで今回の文章から:
唐突ですが,近所の碁会所で行なわれた大会の話をします。筆者はヘボながら囲碁が好きなので,せっかくだからと参加しました。組み合わせが決まって所定の場所につき,初めて見る対局時計(持ち時間の残りを表示する時計)をセットしようと思ったら,対局者から「時計セットしなくていいよ」と言われました。え,さっき持ち時間の説明があったやんか,長考で時間が押したら後の進行にも差し支えるし,何を勝手なこと言ってるの?…とは思ったのですが,相手は時計を進めたまま平気で打ち続けています。
対局は筆者がコウの損得判断を間違えたことで崩れて負けたのですが,終わった時点で対局時計を見ると,二人合わせても一人分の持ち時間さえ使い切っていなかったのでした。自分の感覚では,今までで一番じっくり考えた対局なんだから,きっと時間も十分使っていたと思っていたのですが…。でも,もし与えられた持ち時間をフルに使っていたら勝てたか,というと,多分それはなかったでしょう―というのは,時間がいくらあっても「時間をかけて考える方法」を知らないから。それだけの時間をかけて何を考えたらいいのかわからないから。
定期テストや実力テストのとき,覚えたことを勢い良く書きまくった後,何もできずにいる生徒を見かけます。ああ,持ち時間が使えないのだな(碁会所での私のようだ),自力で考える方法を知らないのだな,普段の授業を「考えながら」受けていないのだな,と感じられるのです。たとえば板書は考えた「結果」だから,それだけ見ていても「考え方」はわかりません。なのに話を聞かずに書き写すことで勉強してると「錯覚」してるんじゃないかな,と思うことがあります。問題を「解く」ことなく,模範解答を「読解」してもどうしようもない,ということは某予備校講師の方が「脱・解答読解」という文章に書いている通りです(この記事もいい)。解き方を知っていることと,解き方をわかっていることとの間には,大きい隔たりがあります。
tss wrote at 2011-10-04 22:11:
わたやん wrote at 2011-10-09 18:57:
ほった wrote at 2011-10-10 07:25:
わたやん wrote at 2011-10-10 23:06:
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