学年通信に少し文章を書いた。読んでくれた生徒からいくらか反応があったのが嬉しい。
やってみる人・やってみない人
昨日はマラソン大会だった。走った人も,裏方に回った人もお疲れさま。この1週間は入試や模試やマラソン大会で授業がなかったが,今日から普通の日になる。きっぱり切り替えて,学年末テストの準備に向かいたいところだ。
先日このような質問があった。次の問題(文字はすべて実数)で,(1)ができたものの(2)がわからない,ヒントに「a=3,b=4とおく」とあったがその理由がわからないというのだ。
(1) (a^2+b^2)(x^2+y^2)≧(ax+by)^2を証明せよ。
(2) 3x+4y=10のとき,x^2+y^2の最小値を求めよ。
「a=3,b=4を代入してみた?」「なぜそうするのかがわからない」「3x+4yが出てくるから」というやり取りで納得したようだったが,私にしてみればそれさえ試してみないで悩んでしまうことが不思議でならない。おそらく「解答読解」をすることで,勉強をしたふりをしているのだろうと思った。
「解答読解」について,数年前ある予備校講師からこういう話を聞いた。彼はバスの中で数学のテキストを開いている女子高校生を見て,次のように考えたという。
その例題はベクトル方程式。どちらかというと、「数式から比較的すぐに意味のわかる問題」なので,解答を読むより数式を眺めてちょっと考えれば終わるはずなのに,解答をなぜか必死で読んでいるのである。ここでふと気がついたのが,「解答の読解」である。彼女は「数学の問題を解く」ということをしているのではなく,「解答の読解」をしているということに気がつき,その「解答読解」という行為が私に違和感を持たせたのである。
彼女のその様子は,普通の人から見れば「がんばって数学の勉強をバスの中でもしている」ととらえられる。「勉強をした証拠」としては十分だし,実際それでその彼女本人にとっても「数学を勉強した」という気持ちにはなる。また,解答は基本的には「読みやすい」ようにできているので,解答を読み進むことは比較的容易にできる。そのため,解答を読み終わると「その問題が解けた気持ちになる」わけである。しかし,実際にはただ「解答読解」をしただけであり,その数学の問題が「解けるようになる」というようになることは少ない。
http://blog.livedoor.jp/ukaraseru_kai/archives/51656624.html
模範解答には「清書」された答案が書かれているが,その前段階の試行錯誤は書かれていない。問題に合わせた「方針」は書いてあるかもしれないが,それはうまくいくことが確認できたものであって,その前段階でうまくいかなかったアイディアは書いてない。
問題を「解く」というのは,考えついたアイディアをその問題にぶつけて試してみるという行為だ。そして大抵の問題解決において,アイディアの大半はうまくいかない。だから普段の勉強の中で,うまくいく体験とうまくいかない体験をしておかなくては実戦で役に立たない。模範解答のうまくいく体験を鑑賞しているだけでは勉強にはならない。うまくいかない枝を刈る経験を,テストになってからやっているようでは遅い。
情報の授業ではいろいろなプログラムを作っているが,中には「模範解答」が示されるまで手を動かさない者がいる。それがいかに時間をムダにしていることか。とりあえず何かしらやってみればいいのだ。違っていたら間違った結果(あるいはエラー)が出るから,別の方法を試してみればいい。試す方法として画面に用意されているものは数種類しかないのだから,片っ端からやってみればいいだけのことだ(数学でも「どの公式を使ったらいいのかわからない」という質問がときどきあるが,実は迷うほどたくさんの公式を知っているわけではない)。
やってみる人と,やってみない人。その差はどんどん開いていく。
コメントの受付は終了しました。