誕生日だからというわけではないが,学年通信の執筆とチャペル礼拝でのお話の順番にあたっている。そんなわけで,学年通信に書いた拙文を転載する。最後の一文は聖書の「ヨハネによる福音書」第8章第32節であり,チャペルでのスピーチはこの節につながる話であった。
与えられた「は・じ・き」からの解放
小学校の算数では「割合」が大きい難関であると考えられています。速さの問題もその一種なので苦労した人も多いかと思いますが,中には「は・じ・き」(あるいは「き・は・じ」)の図で覚えた人もいるでしょう。知らない人のために簡単に説明すると,はやさを求めたいときにはきょりをじかんで割ればいいというようなことがこの図から思い起こされるというもので,同様に割合では「く・も・わ」なんていうのもあるそうです。私はこの図が覚えられませんでした。上にくるのが「は」だったか「き」だったかというようなことを暗記するのが苦手だったのです。だからこの図が必要なときには「距離は速さに時間をかければいいんだから…上にくるのは『き』だな」と考えたりしました。もっとも「距離は〜かければいい」がわかっているのだから,自分が問題を解くときにはその図は必要なかったのですが。
子どもたちは,いや,大人たちも含めて「本当に」文章が読めているのだろうかということを問題視している人たちがいます。日本のような識字率が高いと言われる国でも,実は「機能的非識字」の人が多いと考えられるというのです。短い文や単語の意味なら捉えることはできても,それが組み合わさった「文章」の意味を理解することはできず,結局目についたキーワードの感触だけで物事を判断してしまうということなのですが…思い当たる節はありませんか。関係もわからないのに闇雲に「は」「じ」「き」に何かを当てはめて,無責任な答えを出していませんか。もちろん「は・じ・き」は一つの喩えでしかありません。与えられたテンプレートにしたがって,用意されたキーワードを並べて答えを書くことで,何かを解いたような錯覚を起こしていませんか。
ITの世界には「KISSの法則」と呼ばれるものがあります。これは``Keep It Simple, Stupid!''の頭文字を取ったもので,物事を複雑にすることは容易であり,単純にすることはとても難しいものなのだから,意味のない複雑化を防ぐ方向性という点では正しいものです。しかし何もかもが単純にできるなんてことはありえません。本当に複雑なことは複雑にしか表せないものです。あるジャーナリストは「あらゆる複雑な問題には,明瞭で単純で間違った答えがある」と言いました。にも関わらず,単純な短い言葉で断言を繰り返す人を,間違ってヒーローにしてしまっている状況があるように思われてならないのです---たとえばtwitterで。
教科書が読めるということを一つの目安に考えるといいかと思います。授業では先生方が噛み砕いたものが提供されるので,それを摂取するだけでは鍛えられません。外山滋比古氏は知っていることを読むのをアルファ読み,知らないことを読むのをベータ読みと区別し,アルファ読みができることで文章を読めると錯覚してはいけないとしています。ベータ読みを通じて,自分の奥歯で作った「は・じ・き」だけが真理であり力であるのだと私は考えています。「答えを書く」ことと「解く」ことに隔たりがあってはいけない。あなたたちは真理を知り,真理はあなたたちを自由にする。
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