戻る
古いページ 新しいページ
カテゴリ:健康 固定リンク
なんというか,生きてて楽しくないなあという気分に押しつぶされ中。飛び込みで面白いことや,いいことも舞い込んでは来るのだけど,0に貼り付いたグラフが基本になっている。自分のやりたいことを抑えこんで仕事の時間を作っているわけだけど,抑え続けてると欲求があったことさえわからなくなってしまう。とりあえずは音楽が命綱なのだけど。
コメントの受付は終了しました。
カテゴリ:いろいろ 固定リンク
世間でずいぶん話題になってるけど,はっきりいってどうでもいい。書きたい人が書きたいことを書きたいように書いただけのことだ。
カテゴリ:インターネット 固定リンク
http://www.tokeiyasui.biz/ ってパチモン屋のspamがうるさい。こういうクズ業者はさっさと潰れればいいのに。他人様に迷惑かけるためだけに生きてるこういうやつらって,何考えてるんだろう。
先週の不調を繰り返さないために,今日は寝る。といっても,一日布団に入ってるのも辛いので,まあ適当に。この,咳が続くのは日にち薬しかないような気もするんだけどね。
魚チョコ wrote at 2014-05-19 12:16:
もしかして、最近流行りの鼻血が出ていませんか?
わたやん wrote at 2014-05-19 15:02:
鼻血は何年か前から復活しました。
カテゴリ:情報教育 固定リンク
体調がアレなまま大阪へ。この会場って,こないだウメサオタダオのイベントやったところじゃん(フロアが違うけど)。そんなわけで,知ってる顔がたくさんいる会場へ。
懇親会の二次会をパスして帰るくらいへろへろなので細かいことは書く余裕がないのだけど,情報教育をなんとかするために情報入試のことを考えなくちゃいけなくて,そのために普段のテストや授業から考えなくちゃいけないことがたくさんあることを痛感した。野部先生からは直接大きいヒントをもらったし。
村井先生が言った「IT前提社会」は重要なキーワードだと思う。我々はすでに「IT前提人間」だ。ITを使った自分は,ITを使わない自分よりずっと優れた仕事ができる。生徒たちもそうでなくてはいけない。
仕事帰りに医者に寄ってきた。呼吸音はすっかりきれいになっているのだが,喉がまだ真っ赤だとのこと。そんなわけで週末に切れてしまう薬を補充した。おくすり手帳を見ると…2012年の年末にも同じような薬を出されている。ブログを見ると同じようなことが書いてあった。こういうのが振り返れるのは面白いな。
しかし,ブログを見返してみるとこの12月は(鬱の面で)かなりひどい状態だったようだ。今も決して良くはないわけで…そういうのが肉体的に別の形(喉とか)で顕れているのかもしれないな。
この体調で飲み会に行ってていいのかという気はするが,せっかくなので行く。しかし,残念ながら舌がおかしくなっている。せっかく美味しい物を出されても,いまいちわからない。こんなことで,明後日のジョーシンの懇親会は大丈夫だろうか。
どうにも調子が悪くてなんともならんので,勢いで7月の北海道行きの手配をしてみる。細かいことがわからないのでいろいろおまかせで。もっときちんと検討すれば安いプランとか見つけられるんだろうけど,そんな気力はない。これでうまくいけば,人生最北端を更新できるな。
やっぱり「健康」カテゴリ作っちゃったところで,何か調子悪いところで安定してる気がするな。そんな意図は全くなかったのだけど。でも熱を出したのが4日で,医者に行ったのが7日。そこからもうそろそろ1週間になるのか。治るのに日にちがかかっているのは,もう若くないということなのか…。
授業はそんなわけでずっと低空飛行。最初の挨拶のときにそれを宣告して進めたのだが,自分のボルテージをいまいち上げられないのはこの50分の体調というよりもむしろ,授業準備に十分なリソースをさけていないということなのだと思う。もちろん過去の蓄積で,語れる内容はいくらでもあるのだけど,シナリオがちゃんと組み上げられているかというと決してそうではないということ。ライブだからシナリオ通りには進まないのだけど,それでもきちんと作りこんであるかどうかでいろいろ違うんだなあ。
facebookで紹介された話。文字はよめるのだけど,それを現実ととらえられない「機能的非識字」が存在するという記事。私は今までずっと,実体験に近いレベルで想像できないことを自分が理解できないということをコンプレックスと感じていた(数学やコンピュータについては,想像を体験と感じられるような,そこそこ出来のいい「モデル」を長時間かけて構築してきたし,外向けの「感情」は演繹で作り上げられるとも思っていた)。こんな風に「具体的」なものにしないと実感できないことを,自分の欠陥だと思っていたのだが,そんな人が決して珍しくはないということのようだ。だからといって,自分が想像できないことの非が免責されるわけではないのだけど,いくらかでもわかっているというのは気休めになる。
もちろんすべての活動が「演繹」でなされているわけではない。無邪気な楽しみを感じる面だってたしかにあることを自覚している。そのことと「楽しいことにしている」ことを果たして区別する必要があるのか,それはあまり考えないようにしたい。
コメントの受付は終了しました。