不定期戯言

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2011.12.08 (Thu)

彼らが身につけるのは

・同僚と話していて思ったこと。生徒達は,わかることよりも解き方や,もっといえば答え方を覚えることにやたらと走ってる気がする。詳しいことは後日。今日は疲れた。

コメント(2)

だきわ wrote at 2011-12-09 08:53:

ややもすると数学の問題集の答えを頭で覚えようとするんですよねえ。しかも一夜漬けだから海馬まで到達しない。そんな短期記憶僕ならいりません。

わたやん wrote at 2011-12-10 00:23:

そんな記憶ができる能力は私にはないので「すごい」とは思うのだけど,全然うらやましくないです。いつかお前ら仕事するんだろ,仕事って責任がついてくるんだよ,誰かの思考のコピーにお前が責任負えるのか?…って言ってやりたいんだけどね。

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2011.11.17 (Thu)

主よ,タネもしかけもないことをお許しください

・Facebookで「プログラミング教育をすることの良さは何か」という話があって,コンピュータは魔法じゃないってことをわかることとコメントしたら,何人かから賛成する意見をもらった。ちょっとうれしい。

・でもそれってコンピュータ科学に限ったことじゃないはず。およそ理系の科目がやってることって,「不思議」をひとつずつ解きほぐすことだと思う(文系の科目もそうなんだろうけど,それを納得できるような勉強をしていないのでよくわからない)。それを操れるところまでいかなくていいけど,人が操れるようになってるんだということの理解,操っている人への敬意,そんなものができてほしい。

・一方で,数学の解答を「呪文」のように暗記して忠実に(正確に,でなく)書き写すことを勉強だと思っている人にとっては,きっと数学も魔法なんだろう。「数学というものを,入試の枠組みの中でしか見られない人も,世の中にはいるんだろうなあ」とつぶやいたのは,そういうことでもある。

コメント(4)

たろ wrote at 2011-11-18 05:11:

「魔法じゃない」に賛成票!
相方に「思った通りに動くんじゃない、書いたとおりに動くんだ」
と事あるごとに言われますが
未だプログラムがわかっていない自分には
「魔法じゃないけど未知のもの」です。

だきわ wrote at 2011-11-18 06:25:

そういう人は僕の周りに3人はいます。いや若者が入ったらしいから5人か。

わたやん wrote at 2011-11-27 18:42:

理解できることがベストなんだろうけど,理解はできなくても理解する方法があることを知っているだけでもずいぶん違うような気がします。

久しく数学を教えてないので,最近の状況はよくわかりませんが,以前より良くなっていることは多分ないだろうという気はしています。

だきわ wrote at 2011-11-28 06:45:

数学を教えてない数学科所属の情報教員(誰)は数学を教える教員から疎まれかつ蔑まれています。
もう田舎に引きこもろうかな、という思いが……。あかんなあ月の朝は。

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2011.10.26 (Wed)

研究者の仕事術

・Facebookでだきわさんが「研究者の仕事術」を紹介してくれたので,前に書いたこととつながる気がして,興味深く読んだ。研究につながらない部分が多いこと,でもそういう言語化できない部分も大事だということ,文献とフィールドワークが両輪であることなど,力づけてくれる話だった。

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2011.10.22 (Sat)

高校数学・新課程を考える会

・TeXユーザの集いを中座して,立教大学池袋キャンパスへ。

・統計教育の理想はたしかに充実したものがあるのだが,実際にできてきた教科書を見ると計算ばかりに見えなくもない,このギャップは何…という話が出た。しかし現実の話として,統計を利用して考えるレベルの話まで教科書に載せたら現場で対応できるだろうか,「今はまずここまで」ということで,高校で新しく扱われるようなことが常識になる(あるいはもっと低学年に移る)のを期待して,次の指導要領改訂を見据えた話もしなくちゃいけない…なんて流れになったのだが,これって教科「情報」でいつも言ってることと同じじゃん。

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2011.10.19 (Wed)

学校の研究はどうして実践報告になってしまうのか

・熊本大学教育学部情報教育研究会のブログの,表題の記事がtwitterでRTされていたのでざっと目を通してみた(最近の記事は統計講座になっているのでさかのぼって)。

・確かに,書いてあることはわかる。でもそれ以前に,授業やってるうちに研究に「しばられたくない」みたいな気持ちになってしまうんだなあ。仮説を検証するにはこれを続けて効果を見るべきなんだろうけど,こうした方が反応がよさげだから新しいアイディアを試してみたい,でもそうなると元の仮説の話を離れてしまう…みたいな。私もPenFlowchartを使わせるにあたって,こういう比較・調査をしたいという思いがあったのだけど,授業で反応を見るとその比較が成り立たなくなってもいいから軌道修正してしまった。もちろん最初の計画が甘かったということは否定しないけど,やってみなきゃわからないことは多分にあると思う。

コメント(2)

だきわ wrote at 2011-10-20 11:03:

確かに,これは大学院で肌感覚で学んだことだなあ。
僕が授業実践自体を研究テーマにしなかった(教員の研修がテーマ)のは,こういう難しさがあるなあと途中で思ったからですね。
学校経営的なテーマで学位取るのと授業研究的なテーマで学位取るのとどっちが楽(といってもどっちもキビシイですけど)かと言えば遥かに前者です。

わたやん wrote at 2011-10-24 18:38:

「教員の勘」だけじゃいけないような気がすることがあって,でも研究となるときっともっと難しいんだろうなあと思います。せめて何か定量化して自分の中で積み重ねることができればいいのだけど。

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2011.10.14 (Fri)

knowとunderstand

・職場の同僚のブログで,knowとunderstandの違いの説明があった。今まで持っていた違和感が解決された気がする。たしかにknowの方が深い確信であるというのは,文章を読めば感じることなのだけど(たとえば教えてもらったばかりのことについてI understand it.とは言えるけどI know it.と言ったら感じ悪いだろうなみたいな),ずっと「know=知っている」「understand=理解する」という一問一答式の対応が頭にあって,その理解を妨げていた。

・聖書で誰それを「知る」というとまたアレな意味だし。

コメント(5)

junsuke wrote at 2011-10-14 23:31:

目からウロコでした!英語は一時期かなり勉強してたけど、深く考えたことなかったです

沙無猫 wrote at 2011-10-15 05:47:

そんなの常識っていうか、感覚に染み付いてます

tss wrote at 2011-10-15 15:50:

うーん、日本語は、いや最近の世の中の状況は逆になっているような。
答えを「知っている」けどなぜそうなのかは「理解していない」みたいな。

ほった wrote at 2011-10-19 00:17:

クイズを解くための勉強と興味を持っての勉強の違いみたいなものでしょうか。

わたやん wrote at 2011-10-22 08:00:

>junsukeさん
英語についてはこういうのありますね。中学高校で習ったのは訳を「書く」勉強であって,意味をわかるためじゃなかった気がします。今になってみると。

>沙無猫さん
感覚は明らかにこう言ってるのに,最初に習ったときの「知っている」「理解する」が邪魔するんですよね。

>tssさん
「答えはわかるんですけど,どうしてこうなるのかわかりません」…って,おまえ,それは答えわかってるとは言わないんだよ,と言いたいことがよくあります。

>ほったさん
クイズというか,問題に答えを書くための勉強だと「知っている」「理解する」で訳がかければいいのかもしれませんが,それだと自分で英語読むときに変になっちゃうんですよね。

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2011.10.11 (Tue)

簡単

・世の中には,考えたらわかることを簡単と言う人と,考えなくてもわかることを簡単と言う人がいるのよ。

コメント(1)

わたやん wrote at 2011-10-12 00:44:

いまいち意味が不明確になってしまった。s/こと/ということ/gすればよかったか。

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2011.10.04 (Tue)

学年通信

・久しぶりに学年通信の当番にあたった(年1回は回ってくるんだが)。そんなわけで今回の文章から:

・唐突ですが,近所の碁会所で行なわれた大会の話をします。筆者はヘボながら囲碁が好きなので,せっかくだからと参加しました。組み合わせが決まって所定の場所につき,初めて見る対局時計(持ち時間の残りを表示する時計)をセットしようと思ったら,対局者から「時計セットしなくていいよ」と言われました。え,さっき持ち時間の説明があったやんか,長考で時間が押したら後の進行にも差し支えるし,何を勝手なこと言ってるの?…とは思ったのですが,相手は時計を進めたまま平気で打ち続けています。

対局は筆者がコウの損得判断を間違えたことで崩れて負けたのですが,終わった時点で対局時計を見ると,二人合わせても一人分の持ち時間さえ使い切っていなかったのでした。自分の感覚では,今までで一番じっくり考えた対局なんだから,きっと時間も十分使っていたと思っていたのですが…。でも,もし与えられた持ち時間をフルに使っていたら勝てたか,というと,多分それはなかったでしょう―というのは,時間がいくらあっても「時間をかけて考える方法」を知らないから。それだけの時間をかけて何を考えたらいいのかわからないから。

・定期テストや実力テストのとき,覚えたことを勢い良く書きまくった後,何もできずにいる生徒を見かけます。ああ,持ち時間が使えないのだな(碁会所での私のようだ),自力で考える方法を知らないのだな,普段の授業を「考えながら」受けていないのだな,と感じられるのです。たとえば板書は考えた「結果」だから,それだけ見ていても「考え方」はわかりません。なのに話を聞かずに書き写すことで勉強してると「錯覚」してるんじゃないかな,と思うことがあります。問題を「解く」ことなく,模範解答を「読解」してもどうしようもない,ということは某予備校講師の方が「脱・解答読解」という文章に書いている通りです(この記事もいい)。解き方を知っていることと,解き方をわかっていることとの間には,大きい隔たりがあります。

コメント(4)

tss wrote at 2011-10-04 22:11:

板書はそのままでは書き写せない(たとえばカメラで写してもなんだかわからない)ように書いています。書いては消し、消しては書きたし、時系列でしか読み取れない板書をしています。学校関係者からは正しい板書じゃないと叱られそうですね。でも、いわゆる美しい板書は最初からプリント配ればいいと思うんだなぁ。

わたやん wrote at 2011-10-09 18:57:

板書の通りにノートとらなくちゃいけないなんて誰が決めたんだろう。そんな指導をする先生がいたから,社会科が嫌いになりました。
書いて考える,考えるために書くという体験を,生徒にはもっとやってほしいと思っています。

ほった wrote at 2011-10-10 07:25:

ただ、板書をノートにひたすら写すことで筆記スピードが上がったのは、就職してから議事録など作るときには役立ちました。
板書だけでなく余談まで書くこと出来ればだけど。
これから先こういう技術が必要かはわからないけど。
門外漢の戯れ言ですので。

わたやん wrote at 2011-10-10 23:06:

筆記という技能はそれはそれで大事なんですが,ただ写すのでなく考えを含めてまとめながら写す力は,単純コピーでは身につかないことがあると思うのです。授業の説明はゴールへの向かい方ができるだけ単純になるように話しているので,それが記録できないようでは会議の発言みたいにとりとめなくなりがちなものをとらえて議事録を作るなんてできないだろうと。

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2011.09.27 (Tue)

体育祭

・今日は体育祭。せっかくだからできたばかりの人工芝グラウンドでやろうということなのだが,たしかに気持ちいい感触だわ。私でさえ,体を動かしたい気分になってしまう。写真は何百枚か撮ったけど,外に出すわけにはいかないし,どうしようかな。

・そんな風で1日ずっと人の多いところにいたので,人疲れした。終わってからしばらくダウンしてた。

グラウンド

コメント(2)

文庫老 wrote at 2011-09-28 20:22:

そういえば、市民運動会の撮影係になったことがあるけれど、ほとんどお蔵入りでした。 何のために撮ったんだか。

わたやん wrote at 2011-10-09 19:00:

おもいきり縮小して学年通信に使いました。4枚だけ。でも,印刷したのを見て誰を撮ったのかわかる人はきっといない…。

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2011.09.17 (Sat)

推薦入試

・ある生徒が俺の本気を大学に直接見せつけるために推薦入試を選ぶと言っていて,なかなか骨があるな,と感心した。実は私も大学受験では推薦で合格している。普通に試験を受けても余裕で合格するくらいの成績はとっていたが,担任に「推薦してくれ」と言ったのは彼と同じように大学側の人に直接話をしたかったからだ。残念ながら(?)面接試験以前に書類で合格したのでその機会は逃したのだが。

・より少ない労力で合格するために,という考えの生徒もいるのだろうけど,もったいないなと思う。かける労力が少なかったら,自分の能力を高められないじゃないか。学校というものが,評価を受けるためにあるのか,能力を高めるためにあるのか。評価を受けるにしても,その根拠となるものが何であるべきか。

コメント(3)

anaevekar wrote at 2011-09-18 07:43:

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だきわ wrote at 2011-09-18 17:27:

え、あの一次ものすごく取らないと受からないあれですか!
尊敬しますよ、兄貴。
「学校で何を評価すべきか?」は毎日職場で言い続けてます。
また、「学校を何で評価すべきか?」とも言ってます。

わたやん wrote at 2011-09-20 07:35:

いや,二十ン年前のそれだから状況は今とはだいぶ違ってます。というか,当時はどれだけとればいいとかそんな情報まったくありませんでした。
評価することと力をつけることが,両方動いていけばいいんですけどね。なんだか後者抜きで前者にいっちゃってる感があります。

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