昨日,一昨日は日本情報科教育学会の全国大会ということで滋賀大学教育学部へ。Tシャツにジーンズという格好の人が他にいなくて気恥ずかしい思いをした。次回はもう少し気をつかおう。
資料を職場に置いてきたので,内容についてはおいおい書いていくことにしよう。とりあえず最後のパネルに関する話だけ:
情報モラルの指導をどのように行なっているかという話題で
私は「情報モラル」というくくりが気に入らない。本来必要なのは「ルール(法や規則)」と「しくみの理解」なのであって,あとは本人に倫理と論理さえあればおのずと態度や行動が導かれるはずだ。しかし高校生にもなるとすんなりと倫理が入っていかないし,いっぽう論理で思考できる能力があるとも限らない。そんな風に自分で倫理と論理の橋を渡れない者のために,とるべき態度や行動をしかたなく教えている。
と発言した。模擬フィッシングやチャットの体験に効果があることは理解できるし,それでなされているいい実践については完全に尊敬している。しかし教師の十分な説明と本人の十分なイメージがなければそれはただのスリルに終わり兼ねない…そんな危惧を抱いているということだ。
帰りの電車内でいろんな話を反芻しつつ,『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(齋藤孝著,講談社,ISBN 978-4-06-287943-9)を読んでいたら,あとがきの次の一節が気になった(この本についてはまた項を改めて書きたい)。
私はずっと「技」や「技化(わざか)」ということに,こだわってきた。何か注意されると「あぁ,それなら知ってた」と言う人がいる。できていないのに「わかってる」と言い続ける人には進歩がない。「知っている」ことと「できる」ことは,全く違うことだ。そのあいだには深い川が流れている。
この川に橋をかけるのが,「技」だ。反復練習を重ね,いつでも確実に使えるもの,それが技だ。現代日本では,この技を習得する根気が欠けがちだ。
上記した「倫理と論理の橋」を渡る訓練をどこでやるんだろうと考えてしまった。行動が宗教に縛られない日本人にとって,「よく生きる」ことを目指す意志は何を根拠に発生し,継続されると期待すればいいのかと…「リスペクト」を失った現代において。
勢いあまって『情報のみかた』(山田奨治著,弘文堂)と 『ディジタル時代の学びの創出』(久保田健一・水越敏行著,日本文教出版)をアマゾンで注文した。
余計な話:
一日目の夕方,予約したホテルが琵琶湖のそばだったので歩いて見に行ってみた。おお,広大だ。しかし,この風景とかウォーキングコースとか,なんとなく見覚えがあるんだよな。いったいいつだったんだろう。
二日目に大学構内の道路脇でザリガニをみつけた。ひさしぶりだな,と思ってつかまえてみたら案の定怒られた。ごめんなさい。
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