ふと手にとった『読書は一冊のノートにまとめなさい』(奥野宣之著,Nanaブックス)が気に入った。私も新書とか読むのは好きなのだが,読む端から忘れていく。それではつまらないとはずっと思っていたからだ。この本では本の内容を頭(など)に残すための方法を具体的に提案している。それがあくまでも提案であって押し付けでないのがいい。さっそく100円ショップでA6ノートを買った。抜書って,やってみるとそんなに苦じゃないのね。カードだと収まるようにまとめることに頭を使うが,ノートだとそれをしなくてもいい。
後で『情報は〜』も買ったのだけど,『読書は〜』だけで十分だったようにも思える。パソコンでのインデックス整理など,大事なことはそちらでも十分に述べられているので。
たまたま平行して読んでいた『思考の補助線』(茂木健一郎著,筑摩書房)と共通する主張がある。茂木氏は,世界のすべてを知り尽くすことは不可能だとしながらも,「すべて」に背を向けたまま分類された小さい分野に閉じこもって得られるものは幻想に過ぎないと切り捨てる。奥野氏が「一冊」を薦める理由は,完全な分類はそもそも不可能であり,不完全な分類は非効率や漏れをうむ原因となるということだ。我々が生活する上で「分類」をまったく考えないなんてことはありえないにしても,分類すること自体にリスクが含まれることを頭のどこかで覚悟しなくてはいけない。
内田樹氏は著書やブログで経済原理にしたがって勉強する子供たち(そうさせたのは利益誘導で子供たちを学習に導いた大人)は,努力という対価を払うべき対象を厳選する
というような主張をしている。厳選とは細かい分類をした上での取捨選択である。その作業にエネルギーを費やす子供(には限らないか)の姿は私を寂しい思いにさせる。
といいつつ自分を振り返ると,人のことばかり言えたものじゃない。たとえば私には音楽,プログラミング,数学などいろいろ興味を持つ分野があって,それら全部,あるいはもっと雑多なもの(文具好きとかかわいいCG好きとか酒飲みとかぐうたらとかここに書きにくいあれやこれや)まであわせて私という人間ができている,というのが本当なのに,ずっと忙しさを理由にいろんな部分を休眠させている。ストレスを感じてまで「分類」することもないのかもしれないと思うと,もったいない。
クオリアの問題に目覚めた日は,私の人生における最大の祝福として今でも脳裏に鮮明である。研究所からの帰り,夜。私は電車に乗っていた。無意識のうちにガタンゴトンという音を聴いていた。突然,その音が,周波数で解析しても,スペクトラムを眺めても決して解明しきれぬ生々しい「質感」として私の意識に到達していることに気がついた。私は感動と畏怖で青ざめた。『思考の補助線』茂木健一郎 p.17
法事を終えて親元から帰りの電車の中で,ウォークマンのノイズリダクションの違和感を気にしながらこの部分を読んでいた。なるほど,確かに鼓膜に届くノイズは位相反転した音をかぶせることでキャンセルされているが,そのことが全身が感じる「質感」とのミスマッチを引き起こしているのだろう。
それにしても,茂木氏の本は自分がわかってることは読者もわかるだろうみたいな突き放しがわりとあって,意味のわからない喩えなどが多すぎる感がある。もちろん私が不勉強なのは確かなのだけれど。
だきわ wrote at 2009-02-01 10:55:
わたやん wrote at 2009-02-01 16:31:
n_saito wrote at 2009-02-01 17:54:
わたやん wrote at 2009-02-02 08:17:
ほった wrote at 2009-02-02 09:54:
わたやん wrote at 2009-02-03 13:27:
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